黄 昏 (30)
* * * 59 * * *
卓郎君利広が瞠目していたのは、僅かな時間だった。延王尚隆が掲げた酒盃に、利広は笑みを浮かべて己の酒盃を合わせる。かちんと小気味いい音が響き、二人は杯を干す。それから、利広は朗らかに問いかけた。
「──どういう風の吹き回し?」
「どう、とは?」
「相変わらず、質の悪い御仁だねえ」
澄まして問い返す尚隆に、言って利広はくつくつと笑う。言外に含まれたものを悟り、尚隆はにやりと唇を歪めた。
「お生憎だな。言ったのは天の声を聞く麒麟だ、俺ではない」
胎果の主従が治める雁の隣国に登極した胎果の新王。伏礼を廃すという初勅を出した清廉な女王は、常世の常識を覆すことを恐れない。そして、己に未だ力がないことを十二分に知り、延王尚隆を動かした。
無論、尚隆は陽子が己の伴侶だから助力しているわけではない、寧ろ、理に抵触するかもしれない危険なことを止めさせようとしていた。その延王を、若き女王は論破したのだ。そして会議後、あれが天意なのかもしれない、と延麒六太は感慨深く呟いた。
「ふぅん、天の配剤と延麒が言ったんだ……」
利広は軽く腕組みし、ひゅうと口笛を吹いた。延王を知り、鮮やかで揺るぎない紅の女王をも知る男は、小さくひとりごちる。
「確かに延王は、いくら情に訴えたって動かされる御仁じゃないよね」
だからこそ、宗王家は、延王尚隆を動かした景王陽子の器量を認めているはずだ。尚隆は、頷く代わりに低く笑う。利広はその肯定を受けて続けた。
「景王は、王のくせに王らしくない。初勅といい、今回のことといい、うちの連中も驚いていたよ」
「──だろうな」
その言から、利広が慶に行ったこと自体は隠していないのだと分かる。そして尚隆は、宗王一族の反応を思い浮かべ、くつくつと笑う。
「だから今回、延王は奏に景王をお披露目してくれると思っていたのに」
「なるほど」
公主が楽しいお話を、とねだるわけだ。尚隆は納得する。そして、今回陽子を伴わなかった己の判断は誤りでなかったと密かに笑う。油断ならぬ稀代の名君一家に、泰麒捜索に揺れる女王を見せるわけにはいかない。
「新風を起こす胎果の女王のご尊顔を、是非、拝したかったよ」
「さっき言ったろう。景王は発起人として蓬山に行く必要があったのだと」
景王陽子を知る利広は、空々しいことを言って爽やかに笑う。苦笑を見せる尚隆に、利広は意地の悪い顔をして訊ねた。
「その必要を感じたのは、誰?」
「──蓬山のヌシ、だろう」
「雁の御仁が、ではないの?」
「何故そう思う?」
表面的なことなどどうでもいい、本音を語れ、と利広は促す。しかし尚隆は、簡単に答えてやる気はなかった。利広はにやりと笑い、畳みかけてくる。
「じゃあ、何故、蓬莱に行くのは彼女じゃないの?」
「──時期尚早だ」
本音を言って、尚隆は深い溜息をついた。こちらに来てまだ二年の陽子を、蓬莱へ行かせることは無理だ。
「なるほどね」
強かな太子は満足そうに笑う。そして、おもむろに尚隆の空の酒盃に酒を注いだ。
「──その口で、彼女に天啓だとか吹いたわけだ」
「吹いたわけではないぞ」
「天意を信じていないなら、同じことだよ」
くくくと笑い、利広は己の酒盃にも酒を注ぐ。そして、その酒を飲みながら尚隆を睨めつけた。
「まだ、腹に一物ありそうだねえ。いったい、何を隠しているの?」
「お前に言われたくないな」
「私は、何も隠してなんかいないよ。ただ──」
意味ありげに言い止めて、利広は声を落とした。
「秘密は、秘密のままにしておいた方がいいよ」
「──お互いさまだろう」
尚隆は唇を歪めて不敵に笑う。利広は肩を少し竦め、片手を挙げて出ていった。
* * * 60 * * *
延王尚隆は、酒杯を傾けながら卓郎君利広の背中を見送った。相変わらず喰えぬ男だ、と思いつつも、尚隆は薄く笑う。
宗王家の第二太子は、延王尚隆が必要としていた情報を齎した。王でありながら未だ王ではない景王陽子に、宗王家は一目置いている。延王の助力を引き出した手腕を認め、その動向を気にしているのだ。
確かに、初勅からして、胎果の景王は変わっている。「伏礼を廃す」など、頭を下げられることに慣れた者には思いつきもしないことだ。そんな変わり者が何を言っても、一笑に付されて終わるのが普通だろう。
戴の件は、どこの国も静観しつつ、情勢を気にかけていたはずだ。それは利広の口振りでも分かる。国が荒れれば荒民が増える。自国に流れこむ荒民の問題は、王にとって頭の痛いことのひとつなのだから。現に、目が回りそう、と公主も零していた。
その問題を、景王陽子は解決しようと自ら立ち上がった。そして、揺るぎない意志をもって延王尚隆を論破した。尚隆を動かせなければ他国を動かすことも無理だと承知の上で。延王が動いているからこそ、初めての事業は進んでいるのが実情だ。
天の配剤か、と延王尚隆はひとりごちる。天意など信じたことはない。天の理は教条的に動き、そこに天帝の意が入る余地はない。
しかし、天は雁の隣国である慶に、胎果の女王を配した。胎果の延王は己と同じ胎果の王に興味を持つだろう、と延麒六太は笑った。お前もだろう、と揶揄しつつも、尚隆はそれを否定しなかった。
そして、風来坊の太子も、お忍び中の景王にめぐり会った。私が彼女に出会ったのも天の配剤だよ、と利広は笑った。意味は分からないけれど、と言いつつ、利広は天を疑うことはない。
諸国の情報を齎す風来坊の息子を、宗王は頼りにしている。年の半分はいないんですよ、と溜息をつきながら、后妃も同様に思っているようだった。利広の目が、奏南国の方向性を決める一因ともなっているのだ。
そんなふうに雁と奏を動かした女王は、治世三百年を誇る氾王の興味をも引いた。延王尚隆の要請を無視して、直接慶を訪問するほどに。
登極二年にして、安定した政権を保つ三大国の王と誼を持つ女王。それは、本当に、偶然、なのだろうか。
(──どういう風の吹き回し?)
そう問うた利広を思い返し、尚隆は笑う。問われるまでもない。酔狂だ、と己でも思う。天の配剤を、信じる気になるとは。そう自嘲しつつ、尚隆は酒盃を輝かしき伴侶の面影に掲げた。
翌日、才と恭の麒麟とも顔合わせをし、使令の借受を約した。これで奏にてすべきことは全て終了したことになる。出立の準備を済ませた尚隆は、景麒とともに宗王一族に恭しく拱手する。
「ご助力に感謝申し上げる」
「泰麒の早期発見を願っておるよ」
宗王先進は福々しい笑みを見せ、大きく頷いた。宗后妃明嬉もにっこりと笑みを浮かべて言った。
「景王によろしくお伝えくださいませ。次は是非、麗しきご尊顔を拝したい、と」
「私からも、是非、とお伝えくださいませね」
文公主文姫が悪戯っぽい笑みを見せた。承知した、と受けて、尚隆も笑みを返す。この強かな后妃と公主が男装の麗人である景女王をどう見るか。想像するだけで笑いが込みあげる。陽子は氾王に襦裙を着せられていたが、同様のことが起こるに違いない。
隣を見ると、黙して拱手する景麒が戸惑っているのが分かった。もしや景麒は、夕べ、后妃と公主に捕まって、景王陽子のことを聞かれたのかもしれない。そういえば、景麒は氾麟にもよく絡まれていたな、と思い出し、尚隆は苦笑した。
「延王、蓬莱にお出ましの際はどうぞご連絡をよしなに」
「承知した」
英清君利達の冷静な一言に、延王尚隆も気を引き締める。慶に戻り、泰麒本人が無事に発見されたなら、尚隆は虚海を渡ることになる。王が虚海を渡るとき、大きな蝕が起こるのだ。どこでどんなことが起こるか分からないが、警戒と対策は必要であった。
そして常世最長命国である奏での会議を終え、延王尚隆と景麒は帰路につく。泰麒は見つかったでしょうか、と呟く景麒に、尚隆は応えを返す。見つかっているとよいな、と。
2007.02.03.
大変遅くなりました。長編「黄昏」連載第30回をなんとかお届けできました。
奏での会議も無事に終わり、クライマックス間近でございます。
──だと思います。だといいなと思います(弱気)。
気長に見守っていただけると嬉しいです。
2007.02.03. 速世未生 記