黄 昏 (31)
* * * 61 * * *
延王尚隆は景麒とともに再び雲海の上を飛び、奏から慶へと戻った。宗王の協力により、崑崙にて泰麒を捜索していた三国の使令を借り受けることができた。遁甲できる使令が、一足先に到着しているはずだ。
「一度、政務に戻ります」
「何かあったら、すぐに報せる」
宮殿に降りるなり、景麒は頭を下げてそう言った。尚隆は短く返答する。踵を返した景麒は、背に緊張を走らせていた。泰麒と浅からぬ誼を持つ景麒は、誰よりもその身を案じているだろうに。その生真面目な後ろ姿を見送り、尚隆は小さく息をつく。
──泰麒は、見つかっただろうか。
掌客殿に向かう回廊を歩きながら、尚隆は考える。見つかっていれば、尚隆は即座に虚海を超えることとなる。泰麒を迎えに、蓬莱へ向かうことになるのだ。
五百年ぶりの、己の故郷。
そして、伴侶が切なく恋うる、ほんの二年前まで暮らしていた故郷──。
己の物思いに深く沈みそうになり、尚隆は首を振る。今は、感傷に浸っている場合ではないのだ。
「──首尾は上々のようだね」
尚隆が蘭雪堂に顔を出すと、留守居の氾王がそう言って笑みを見せた。これがこの男流の労いなのだろうと察し、尚隆は軽く頷く。それから、表情を引き締め、本題を問うた。
「──泰麒は?」
「まだじゃ」
氾王の応えは簡潔だった。それでも、崑崙組の使令たちも廉麟と合流し、蓬莱にて泰麒を捜索している、と告げた。手勢が増えたために、僅かに残された泰麒の気配を辿る作業が容易になった、と。現在は泰麒の学舎を中心に、虱潰しに捜索中とのことだった。
懸案の事項を聞き終え、尚隆はほっと息をつく。それから、蓬山に向かったもう一方の動向を訊ねた。
「──六太たちはまだ戻らんのか?」
「李斎が一緒だからね。時間がかかるのであろ」
尚隆の問いに、氾王は素気無くそう返す。それより、と氾王は厳しい貌を見せ、暗く続けた。
「饕餮の穢れが酷くなってきている。血の匂いが増しているそうだえ」
「──傲濫が、蓬莱で暴れている、というのか?」
氾王のその言に、尚隆の背筋はぞくりと冷える。反射的にそう問うた尚隆に答えたのは氾麟だった。蓬莱に行った使令がますます怯えているのだ、と氾麟は柳眉を顰める。
「実際に傲濫を見つけたわけじゃないから、分からないんだけど……」
学舎に残された泰麒の気配がとても汚れている、と廉麟が言うのだ、と氾麟は続けた。しかも、その場に残されているのは、戦場のような血と殺戮の気配。傲濫は妖魔の性を取り戻しているのだ。獣の本性が強いという氾麟は身を震わせ、そそけだった顔色で語る。
「──麒麟が、そんな血の穢れに、長く晒されたら……」
血を厭う麒麟は、血に病む。そして、麒麟が病めば、使令も病んでしまう。病んだ使令が理性を失い、暴走しているとしたら。長くは保たない、という氾麟の言葉は、口の中で消えた。
尚隆は黙して考える。泰麒の使令、饕餮は、蓬莱の民を殺めているのだろうか。麒麟を守るべき使令が、血と怨詛を纏ったまま泰麒の側にいるのだろうか。もしそうであれば、血に汚れた泰麒の命脈は更に細くなってしまう。もう、猶予は幾ばくも残されていないだろう。
それが分かっているからこそ、待つことしかできぬ者たちは、何も言わなかった。そして蘭雪堂は、沈痛な静寂に包まれたのだった。
やがて、廉麟が蓬莱から戻り、姿を現した。尚隆を認め、廉麟は淡い笑みを見せる。
「お戻りなさいませ、延王。助勢をいただき、ありがとうございます」
「廉台輔、ご苦労だった。──泰麒は?」
労いつつも躊躇いがちに問う尚隆に、廉麟は力なく首を振る。それでも、廉麟は尚隆に深々と頭を下げた。捜索を担う使令の数が増えたことで助かっているのだ、と。それなのに、泰麒の気配はあまりに細く、途切れているのだ。
「──近くまで来ていることは、確かなのですが」
廉麟はそう言って目を伏せる。今、この追いつめられた状況で、焦るな、などとは言えない。尚隆はそんな廉麟にかける言葉を失い、黙したのだった。
* * * 62 * * *
廉麟と数多の使令による泰麒捜索は続いていた。戴国将軍李斎を伴って蓬山へ向かった延麒六太と景王陽子はまだ戻らない。待つことしか術を持たぬ延王尚隆は、蘭雪堂にて徒然に物思う。
泰麒は病んでいる。麒麟の本性を喪失した泰麒には、暴走し、人を殺める使令を抑える力がない。──天は、これをどう見るか。
泰麒も使令も様子が尋常でない。無理に渡せば何が起こるか分からない。そもそも渡すことが叶うのか、渡して連れ戻していいものなのか、何もかもが定かではない。故に玄君にお伺いを立てよ。尚隆はそう言って六太たちを送り出した。
六太も陽子も、泰麒を助けるための手段を玄君に訊ねようとするだろう。麒麟である六太と、王であって未だ王ではない陽子ならば。しかし、延王尚隆には碧霞玄君の齎すであろう答えが予測できた。
捨て置け──天は無情にそう言うことだろう。
麒麟の本性を喪失した泰麒は、もはや只人だ。使令を動かせず、王気を感じることもできぬ只人が、戴を救うことはできない。
余命幾ばくもない麒麟など見捨てて、新たな泰果が生るのを待て。尚隆が天帝であれば、そう命じることだろう。それが、天の理を熟知する者の考え方なのだから。
ただ、問題は傲濫のことだった。泰麒を放置すれば、箍が外れた強大な妖魔が蓬莱に残されることとなる。そんな事例は今までなかったはずだ。天は、それをどう考えるのか。尚隆はそれを確かめたかった。
蓬莱に妖魔が現れたこと自体は初めてのことではなかった。かつて、塙王の放った妖魔が、蓬莱にて次期景王である陽子を襲った。陽子はそのときの阿鼻叫喚を尚隆と六太に語った。
妖魔の襲撃で割れた玻璃が、周りにいた人々を傷つけた。血塗れの者たちの中でただひとりだけ無傷の陽子を、人々は奇異の目で見つめ、責め立てたのだ、と。
それは景麒が主を守るために契約を済ませていたからだった。只人から王になったからこそ、陽子は怪我をせずに済んだのだ。その後、陽子は景麒とともに虚海を渡り、妖魔はそれを追ってこちらに戻ってきた。
隣国の偽王を支援し、新たな王を亡き者にしようとした塙王。その報いは、塙王の半身である塙麟の失道という形で表された。天の理は正常に動き、天命に逆らって隣国に干渉した塙王を誅したのだ。
故に、隣国の内紛を静観していた延王尚隆は、天の意を問う必要がなかった。そして、尚隆は自発的に雁に現れた景王を助勢した。それは、景王の為人を、己の目で確かめたからだ。景王陽子は、まさしく王気を具えていた。
景王が雁に在るからには、早々に景麒を奪還しなければならなかった。塙王の目的が慶の混乱にあるのならば、景麒は殺されかねない。景麒が死ねば、景王陽子も命を落とす。そうなれば、慶に新たな王が立つまでに、またもや時が費やされるのだ。
隣国の王としての尚隆は、慶の玉座を空にしたくはなかった。雁の王師の助力を得て、景王陽子は景麒を奪還し、玉座に就いたのだった。
同様に内紛が起きたというのに、それでは理不尽だ、と李斎は叫ぶのだろう。何故、泰麒が存命なのに、泰果を待たねばならないのか、と。しかし。
慶には国主がいた。戴には国主がいない。景王陽子は胎果の延王を頼って雁にやってきた。が、泰王も泰麒も行方知れずの戴には取りつく島がなかった。非情と言われようが、それが現実なのだ。
(王ならば、当然考えることじゃな)
(王なら、必ず思うことだろう)
奇しくも、範と奏が同じ科白を吐いた。そして、延王尚隆も、景王の意を受けて動きながら、まだそれを考える。
泰麒を仙に召し上げて蓬莱から連れ戻す、という案を玄君が一蹴したならば。尚隆は天の意向に従うつもりでいる。天の理に背き、国を傾ける気はない。一国を背負う王として、それは許されることではないのだ。
見捨てることなどできない、と景王陽子は強い意志を見せた。
今尚、泰麒を見捨てることを選択肢に残す尚隆を、陽子は責めるだろうか。
胸に抱く清廉な女王の真っ直ぐな瞳が、尚隆を鋭く射抜く。
それでも、泰麒を救うことが天の意に背くことならば。己は、伴侶を傷つける、無情な決定を下すのだろう。
そう思い、尚隆は自嘲の笑みを浮かべた。
2007.02.16.
大変お待たせいたしました。長編「黄昏」第31回をお届けいたしました。
泰麒捜索もそろそろ大詰めを迎えそうでございます。
気長にお付き合いくださいませ。
2007.02.16. 速世未生 記