黄 昏 (32)
* * * 63 * * *
街がざわめいている。
蓬莱から戻った廉麟が深い溜息をつく。強大な妖気が蠢き、死臭が漂っている、と廉麟は辛そうに俯く。延王尚隆は、そんな廉麟の細い肩を励ますように叩くことしかできなかった。
それは傲濫のせいだけはないことを、尚隆は知っている。泰麒捜索のために蓬莱に派遣されている数多の使令のせいでもあるのだ。
蠱蛻衫を羽織る廉麟は、蓬莱の人々の目にも只人に見えるはずだ。しかし、胎果ではない景麒は、幽鬼のようにしか見えない。そして、泰麒を捜す使令たちは、人の目にはただの化け物に映るだろう。
こちらの世界でも、聡い者は隠形する使令の気配を察することができる。あちらでもそうだとしたら、蓬莱の街がざわめく理由にもなるだろう。しかし、泰麒が見つかるまでは、いかに蓬莱を騒がせようと、捜索を止めるわけにはいかないのだ。
そして、その泰麒を、どうやってこちらに連れ戻せばよいのか。そもそも連れ戻してよいものなのか。それは、蓬山へ行った六太と陽子の帰りを待たねば分からないことだった。
尚隆が慶に戻って数日後、景王陽子が蓬山から李斎とともに帰国した。疲れ切った李斎を女御に託し、陽子はひとり蘭雪堂に姿を見せた。
「ただいま戻りました。──泰麒は?」
陽子の問いに、残っていた者たちは首を振り、沈黙で答える。陽子は、そうですか、と大きく息をつき、目を伏せた。憔悴したその様子は痛々しかったが、まだ休ませるわけにはいかない。玄君の応えを聞かなければならないのだ。尚隆はおもむろに問うた。
「ご苦労だった。──六太は?」
「諸々の手配をしに、雁へ向かいました」
それから陽子は蓬山での出来事を詳細に語った。泰麒は角を失い、獣である麒を封印されてしまったのだろう。碧霞玄君玉葉はそう語ったという。そして。
自ら正されるのを待て。
碧霞玄君は、天の意向をそう伝えた。そのあまりに無情な答えに、李斎は食ってかかった。仁道をもって国を治めよ、と言ったその口で、泰麒が死ぬのを待て、と言うのかと。
玄君は深く重い溜息を零した。天には天の道理がある。玉京はその道理を通すことが全てなのじゃ、と。必死の形相で尚も言い募る李斎を、六太も陽子も止めることはできなかった。
泰麒は戴の希望なのだ、と断じる李斎に、玄君もついに折れた。雁に泰麒の戸籍を用意し、延王君を渡らせて、仙籍に入れ、三公に叙せ。玄君の下したその決定に基き、延麒六太は蓬山から真っ直ぐ雁に向かった。
景王陽子は、そんな重苦しい話を淡々と語り終え、一礼した。固唾を飲んで聞いていた一同は、一様に深い息を吐く。
語り手の陽子は勿論、始めに告げられた玄君の非情な応えに憤る者はいない。それは、王であれば考え得る答えだからだ。ただ、麒麟である氾麟だけが、蒼褪めて少し肩を震わせていた。その小さな肩を安心させるように抱き寄せ、氾王が口を開いた。
「──それでは、後は、泰麒発見を待つばかりじゃな」
「そうだな。宗王のご協力で、手勢は増えているから」
尚隆は氾王に同意し、奏での会議を陽子に話して聞かせた。崑崙から引き上げた数多の使令が、そっくり蓬莱に向かい、廉麟を助勢している、と。陽子は深く頷き、それから躊躇いがちに問うた。
「──蓬莱は、今、どういう状況なのでしょうか」
「街がざわめいている、と廉麟は言っていた。妖気が蠢き、死臭がすると」
口重く答える尚隆に、陽子はそうですか、と言って黙した。それから、軽く拱手して告げる。
「──李斎に伝えてきます」
「お前は、そのまま、少し休め。──顔色が悪いぞ」
陽子が姿を見せたときから言いたかったその一言を、尚隆はようやく口に出せた。しかし、いえ、と首を横に振り、陽子は淡い笑みを見せた。
「何かをしていたほうが、気が紛れるんです」
それは、廉麟が以前に言ったことと同じだった。それから陽子は、聞こえるか聞こえないかの微かな声で続けた。
もう、待つことしかできないのだから、と。
尚隆は、陽子の胸から溢れる切ない想いを感じ、もう何も言えなかった。そして、もう一度頭を下げて退出する陽子を、黙して見送った。廉麟が泰麒を見つけたと蘭雪堂に駆け込んだのは、その日のことだった。
* * * 64 * * *
碧霞玄君玉葉の指示に従い、延麒六太は一人雁へと向かう。それを見送り、景王陽子は戴国将軍李斎とともに帰途に着いた。
蓬山のヌシたる碧霞玄君にさえ、怖じけずに己の願いを訴えた李斎。その真摯な嘆願はついに、天に仕え天の声を聞く玄君をも動かしたのだ。
自ら正されるのを待て。
玄君は沈痛な面持ちで、無情な答えを齎した。背筋が冷える思いを持ちながらも、陽子はその応えを予想していた。恐らく玄君は、己の持つ権限の中で陽子たちに回答しているに過ぎないのだ。
天が存在し、王が官吏を任ずるように王を任ずるのなら、天もまた過ちを犯す。王と呼ばれる身でありながら、己の小ささを嘆く陽子も、それが分かりかけている。
かつて、陽子は慶の王でありながら、起こると分かっていた内乱を止められなかった。王は万能ではない。天が存在するならば、天すらも万能ではないのだ。
だから、陽子は李斎のように、即座に反論することはできなかった。それはきっと、延麒六太も同じだろう。李斎の叫びは民の叫びだ。慶の街でその叫びをぶつけられ、陽子は唇を噛んで俯くだけだった。
苦しげに騎獣にしがみつく李斎に視線を落とし、陽子は小さく息をつく。六太と陽子だけでは、泰麒救出の許可を得ることはできなかったろう。王や麒麟は、民のように純粋に天の矛盾を責めることはできないのだから。そして、延王尚隆はそれを知っていた。
そもそも渡すことが叶うのか、渡して連れ戻していいものなのか、何もかもが定かではない。蓬山に六太と陽子を派遣する理由として、尚隆はそう述べた。
あのとき動揺していた陽子は、深く考える間もなくその命に従った。今思えば、尚隆は既に玄君の応えを予測していたのだ。もはや麒麟とはいえない泰麒を、天は見放すかもしれないと知っていた。
せっかく発見した泰麒を、見捨てなければならないかもしれない、と──。
それは、やるしかないであろ、と断じた氾王も同じに違いない。氾王は、皆の前ではっきりと言っていたではないか。
連れ戻らねば戴は沈む。莫大な被害があろうとも連れ戻るか、さもなければ一思いに泰麒を殺害して泰果を待つか、と。
無茶苦茶を言うな、と麒麟の六太は怒声を上げた。しかし、王たる者は、まずそれを考えるのかもしれない。そして氾王は、その後沈黙を守り、細かい采配をする尚隆にも異を唱えなかった。
尚隆は宗王に蓬莱で泰麒が見つかったと報せる必要があると言っていた。その本意は、あちらの三国から使令を借りることではなかったのかもしれない。
李斎を励ましながらの帰路、頭を冷やして考える時間はたっぷりあった。見捨ててはおけない、そう思ったのは確かだ。今もそれは変わらない。しかし、そういう問題ではない、簡単なことではない、と尚隆が諭すわけも分かってきた。
麒麟の本性を失った泰麒は、もはや一人で虚海を超えることはできない。只人となった泰麒を迎えに行くために、胎果の王が虚海を渡る。大きな蝕を起こし、甚大な被害を齎すと分かっていながら。そうまでして泰麒を連れ戻したとて、戴が救われるとは限らないのだ。
天が容易にそれを許すはずがない。永きに渡り国を支え、大国を築いた王たちが簡単に肯んずるわけがない。
玉座に就きながら、己は未だに愚かなままだ。
自嘲の溜息をつきながらも、陽子は前を見つめる。事を提起した者として、景王陽子は最善を尽くさなければならない。胎果の王でありながら、虚海を渡ることも禁じられた身である。それくらい、陽子はまだ未熟なのだ。それでも。小さいながらも、己にできることはあるはず。
そうして長旅の末に慶に辿りついた。陽子は、すぐに蘭雪堂に向かおうとした李斎を押し留めた。まず休めと説得したわけは、李斎が疲れ切っているからだけではなかった。陽子は王として居残る王と麒麟に蓬山でのことを報告しなければならない。それを、李斎に聞かせたくはなかった。
駆けつけた鈴に李斎を託し、陽子はひとり蘭雪堂に向かう。そこには留守居の氾王と氾麟、そして奏から帰国した延王尚隆が待っていた。
誰も口を開かない。陽子は分かっていながら泰麒の消息を問う。黙して首を振る人々に、そうですか、と返して溜息を落とした。
一人で姿を現した陽子に、尚隆が六太は、と訊ねる。陽子は蓬山での出来事を詳細に伝えた。玄君の無情な応えにも、やはり二人の王はただ頷いただけだった。ただ氾麟だけが蒼褪めた顔を見せる。
陽子の話を聞き終わり、後は泰麒発見を待つのみだ、と二人の王は頷きあう。そして尚隆が奏での会議を陽子に聞かせた。あちらの三国の使令が蓬莱にて廉麟を助勢している、と。
それでは、蓬莱には妖魔が満ち溢れているのだ。泰麒の使令が暴れ、泰麒を捜す使令が跋扈する蓬莱の街を思うと身が震える。蓬莱はどうなっているのか、と問うてみた。街がざわめいている、と尚隆は口重く答えた。妖気が蠢き、死臭がする、と。
居ても立ってもいられない気持ちになる。それでも、陽子は蓬莱に行くことはできないのだ。李斎に伝える、と陽子は踵を返す。少し休めと気遣う尚隆に笑みを返した。何かをしていたほうが気が紛れるのだ、と。
もう、待つことしかできないのだから、と陽子は呟く。尚隆は、何も言わなかった。
2007.02.23.
お待たせいたしました、長編「黄昏」連載第32回をお届けいたしました。
あれ、まだ泰麒発見にいけませんでした。──何故?
申し訳ありません、いつもの如く気長にお待ちくださいませ。
2007.02.23. 速世未生 記