黄 昏 (33)
* * * 65 * * *
蓬山での報告を終えた景王陽子は、太師邸で休む李斎を訪ねた。陽子の姿を認め、李斎はすぐに起き上がろうとする。陽子は軽く首を振り、泰麒はまだだ、とだけ告げた。李斎の目がそっと伏せられる。それでも、ありがとうございました、と李斎は深々と頭を下げた。
ここで休んでいろ、と言っても、李斎は大丈夫だと笑うのだろう。そして、一縷の望みを抱いて蘭雪堂へ足を運ぶのだ。そんな居ても立ってもいられない気持ちは、今の陽子にはよく分かる。そう思い、陽子はそれ以上何も言わず、李斎の許を辞した。
蓬山から帰ってきた陽子にできることは最早ない。碧霞玄君の指示を受け、延麒六太が雁にて必要な手配をしている。その準備が整い、泰麒が発見されたら、延王尚隆が、虚海を渡るのだ。そこまで思い巡らせて、陽子は瞑目する。
執務室に向かいながら、慶で探索を行ってよかったかもしれない、と陽子は思った。慶に居れば、仕事で気を紛らわすことができる。当初の予定通り、雁で行われていたらどうだっただろう。待つことしかできず、無為に時を過ごすのは、苦しいことだったかもしれない。
陽子はしんと静まり返った執務室で茶を淹れた。程なく、国主帰国の報せを耳にしたらしい冢宰浩瀚が現れた。自身も疲れた顔をしながらも、浩瀚は陽子を気遣う。
「お戻りなさいませ、主上。──お顔の色が優れませんね。少し休まれては如何ですか」
「──何かしていたいんだ。蘭雪堂にいても、待つことしかできないから」
皆同じことを言うんだな、と陽子は浩瀚に笑みを返す。言い出したら聞かない主の気性を熟知する冢宰は苦笑していた。それを知る陽子は小さく溜息をつく。
「済まないな、浩瀚」
「──どうなさったのです?」
忠実な臣に詫びなければならないことが沢山ある。そう思い頭を下げた陽子に、浩瀚は僅かに目を見張り、それから微笑した。
「──お前も遠甫も、覿面の罪を知っていた。ならば、延王が何を示唆していたのか、気づいていたんだろう? ──私は、愚かだな」
覿面の罪を承知で胎果の景王を頼ってきた李斎。それほどまでに切羽詰った戴を深く案じる李斎。景王陽子はただ無邪気にその手を取った。李斎を、泰麒を、戴をも救いたいと願って。
(困っている者がいるのだから助けてやれば良い──というような、簡単なことでないのは確かだ)
延王尚隆は最初からそう諭していた。聞き入れなかったのは、陽子のほうだ。戴の悲惨な状況を知ったからには、見捨ててはおけない。如何に己の手が小さくても、何かできることがあるはずだ。単純にそう考えた己を、陽子は自嘲する。
拓峰の乱を止めることができなかったように、できないことは多々ある。いや、王でありながら、陽子にはできないことの方が多いのかもしれない。それなのに。
「主上が王なのです。そして、初めから名君な王など、おられませんよ」
思うとおりにおやりなさいませ、と浩瀚は頭を下げる。微力ながらご助力いたします。そのために私たち臣が傍に控えるのですよ、と怜悧な冢宰はまた微笑した。
その言葉は胸に心地よく響く。だからこそ、それに甘えすぎてはいけないと自戒するのだ。陽子は思わず苦笑を零し、溜息混じりに応えを返す。
「お前は──私に甘いな」
「──己を愚かだ、と仰る王を諫める言葉など、私にはございません」
浩瀚は恭しく頭を下げながらも強い口調でそう言った。陽子は思わず目を見張る。
「今、何をなすべきか、お分かりのはずです。──お心のままにお進みくださいませ、主上」
言葉を失くした陽子を置いて、浩瀚は踵を返す。その背を見つめながら、陽子は深く頭を下げた。それから、唇に笑みを浮かべ、忠実な臣を呼び止める。
「──浩瀚」
怜悧な冢宰は、訝しげに振り返る。景王陽子は揺るぎなき笑みを向け、一言告げた。
「──ありがとう」
涼しげに微笑んだ浩瀚はもう一度拱手し、出て行った。冢宰の命を受けて下官が書簡を運び入れる。陽子は溜まった仕事に取りかかった。泰麒が発見されたと報せが入ったのはその夜のことだった。
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「陽子、泰麒が見つかったわ!」
夜も更けた頃、景王陽子の執務室に、氾麟が足音高く駆け込んできた。待ちに待った報せを聞いて、陽子は即座に蘭雪堂へと向かう。陽子が到着したときには、雁に向かった延麒六太以外の全員がその場に揃っていた。
氾麟とともに足を踏み入れた蘭雪堂には、異様な雰囲気が立ちこめている。凍りついたように蒼褪めている李斎。そそけだった顔を見せる景麒。泰麒発見の興奮を僅かに残す廉麟。そして、冷静な顔を見せながら、黙して語らぬ二人の王。
興奮と緊張がないまぜになった、その静寂を破るのには勇気が必要だった。陽子は大きく息を吸い、誰にともなく声をかけた。
「──泰麒が、見つかったそうですね」
「使令が、泰麒と、共にいる汕子と傲濫を発見した」
延王尚隆が頷き、短く応えを返す。それから、明日呉剛の門を開く、と続けた。陽子は思わず生唾を呑みこみ、黙して頷いた。
「──さて、もう夜も更けた。明日のために休んだほうがよいのではないかえ」
「呉剛の門をどこで開くか、検討する必要があるが」
「誰もが猿王のように丈夫なわけではないであろ」
休息を促す氾王に、尚隆はかぶりを振る。しかし、氾王は大事の前には頭を冷やせと重ねて促す。皆が疲れているのだ、と。尚隆は眉を顰めながらもそれに同意し、その日はお開きとなった。
私室に戻り、陽子は大きく溜息をついて榻に身を沈めた。とうとう泰麒が発見されたのだ。廉麟が確認しに行ったときは既に泰麒は立ち去っていたという。しかし、その場に使令を残しているので見失うことはもうない、廉麟はそう言った。
泰麒の気配が汚れている、蓬莱がざわめいている、と廉麟は告げていた。泰麒は今、どうしているのだろう。蓬莱は、いったいどうなっているのだろう。己で行って確かめたい気持ちが募る。新聞やテレビの報道を見れば、きっと分かるに違いないのに。
込みあげる焦燥感に、陽子は頭を掻き毟る。そしてまた、大きく溜息をつき、自嘲した。その事実を知っても、己の気が済むだけだ。陽子には、何もできない。それに──明日、尚隆が虚海を渡る。泰麒を迎えに、蓬莱へ行くのだ。
碧霞玄君は延王君を渡らせよと命じた。陽子は、虚海を越えてはいけないのだ。今、己にできることをしなければならない。それは──待つことのみ。落ち着け、と己に言い聞かせ、陽子は深呼吸を繰り返す。
「──陽子」
低い呼び声に陽子は顔を上げる。目に入ったのは、少し疲れを見せる伴侶の顔。陽子は立ち上がり、伴侶の名を呼び返す。
「尚隆……」
それ以上何も言えず、陽子は伴侶に身を預ける。尚隆も口を開かなかった。蓬山と奏に分かたれて、日が経っている。離れている間に、様々なことがあった。だから──ただ、その温もりを確かめたかった。
どちらからともなく唇を求めた。まるで慰めあうかのように、互いの唇を味わう。共に心に異郷を抱く胎果の王。それなのに──。
このひとは、明日、虚海を渡る。
陽子が、ほんの二年前まで住んでいた、懐かしい場所に行くのだ。夢幻の故郷を想うと、陽子の瞳に涙が滲んだ。羨ましい、と思う己の浅ましさを恥じて、陽子は伴侶に詫びる。
「──ごめんなさい」
「何を謝る?」
伴侶は優しく微笑んだ。髪を撫でる手の温かさに、ますます涙が零れる。今、このひとの前で泣いてはいけない。そう思いつつも、涙を止めることはできなかった。
こちらに来た当時、水禺刀はいつも故郷を見せつけた。しかし、陽子はもう水禺刀を覗くことはなかった。慶の宝重は、乱れた心で操れる代物ではない。
蓬莱は、故郷は、今や夢幻の世界でしかない。二度と帰れないからこそ、手に届かないからこそ、そう思っていた。それなのに──。
「ごめんなさい……」
嗚咽を堪え、陽子はただそう繰り返した。
あなたを羨ましいと思う私を許して。あなたを責めてしまう私を許して。
口に出せぬ想いが、涙となって流れた。しがみついて子供のように泣く陽子の背を、髪を、伴侶はいつまでも優しく撫で続けた。
2007.03.03.
大変お待たせいたしました。長編「黄昏」連載第33回をお届けいたしました。
はい、やっと泰麒発見でございます! 長かったです。
次回、短編「帰還」の尚隆視点にいきたいです。いけたらいいなと思います。
──気長にお待ちくださいませ。
2007.03.03. 速世未生 記