黄 昏 (34)
* * * 67 * * *
泰麒が発見されたのは、陽子たちが蓬山から戻ったその日の夜であった。廉麟が齎した待ちに待ったその報せに、李斎は凍りつくように動きを止めた。廉麟が語る詳細を聞き終えた李斎は、天を仰ぎ、謝辞を述べた。
ついに見つかったか。
泰麒発見の報を聞き、延王尚隆は複雑な思いを胸に宿す。しかし、それを面に出すことなく、尚隆は李斎を見やった。
天は何故戴を救ってくれないのか──そう憤っていた李斎。天の存在を認識し、蓬山のヌシをも動かした李斎の祈りがついに届いた。
氾麟が興奮したように、どうやって迎えに行くのか、と声を上げた。尚隆は呉剛の門を開く、と短く応えを返す。大きな蝕になるね、と氾王が呟く。仕方なかろう、と答え、尚隆は対策を提案した。
できる限りの使令を使って、災異が最小限に留まるようにする。それでどの程度のことができるかは分からぬが。できるだけのことをするしかあるまい。そう語る尚隆に氾麟は頷いた。
それでいつ、と訊ねる氾王に、尚隆は短く答える。明日、と。
泰麒は弱っている。連れ帰るなら早いほうがよい。明日には六太も全ての準備を整えて慶に戻るはず。そして、遁甲する使令は尚隆が蓬莱に着くより早く崑崙組に報せを届けることができるだろう。それから、呉剛の門をどこで開くかを検討しなければならない。
使令を景麒に差し向けた後、陽子に報せてくる、と氾麟は蘭雪堂を駆け出ていく。やがて、そそけだった顔をした景麒が姿を見せた。そして、蒼褪めた景王陽子が現れた。
己を落ち着かせるように大きく息を吸い、陽子は口を開いた。泰麒が見つかったのですね、と。尚隆は頷き、短く応えを返す。
「──明日、呉剛の門を開く」
端的に続けた尚隆の言葉に、陽子は生唾を呑みこんだ。とうとう、胎果の王が虚海を渡るのだ──。それでも、陽子は動揺を見せまいと堪えていた。
「──さて、もう夜も更けた。明日のために休んだほうがよいのではないかえ」
「呉剛の門をどこで開くか、検討する必要があるが」
「誰もが猿王のように丈夫なわけではないであろ」
かぶりを振る尚隆に、氾王は更に言い立てる。誰もが疲れているのだと。確かに、皆が疲労と興奮を隠しけれずにいる。尚隆は一同を見回し、不承不承頷いた。
清香殿の自室に戻りながら、尚隆は物思いに沈む。氾王に言われるまでもない、皆がそれぞれ疲れている。
奏から帰った景麒はすぐに公務に戻り、その後また蓬莱へと向かった。廉麟は休むことなく蓬莱にて泰麒捜索を続けていた。氾麟は膨大な数になった使令を統率し、必要とあらば鴻溶鏡にて裂いていた。李斎は萎えた身体を押して蓬山へ向かい、戻ってからも休養を拒んだという。そして、陽子もまた、蓬山から戻った後も公務に向かった。
眠ることができない、とかつて廉麟は語った。何かしていたいのだ、と陽子も言った。その思いは尚隆も同じだ。独りになると、普段忘れている余計なことを考える。
麒麟でもなく、胎果でもなく、当事者でもない、氾王呉藍滌だけが冷静でいられる。
氾王が暗に、頭を冷やせ、と仄めかしたのだと尚隆は察していた。つくづく気に障る奴だと思いつつも尚隆は苦笑する。一線を置いて全体を見渡せる者がいるということに、己は安堵を覚えている、と。それは、意外な事実であった。
いつも周囲にいるのは臣だった。尚隆は王なのだから、それは当たり前のこと。王の半身である麒麟ですら、臣なのだ。諫言しても結局は王の命を呑む。王は、絶大な権と逃れようのない責を負い、孤独を強いられる。王朝があっという間に斃れるわけだ、と尚隆は自嘲する。
(十二も国があるのに、団結して何かをやったことはないのか?)
不思議そうに瞬いた翠の瞳を思い出した。あのとき、誰もが失笑していた。しかし、常世の常識を破る景王陽子のあの一言が、此度の流れを生んだ。若さとは、未熟でありながら柔軟だ、とつくづく思う。
泰麒発見。それは李斎の望みであり、そんな陽子の願いでもあった。そして、只人となり、己の力で虚海を渡ることができぬ泰麒を迎えに行くのは尚隆。虚海を超えて故郷に帰ることを禁じられた陽子の心中は、推して知るべし。
陽子は、また独りで泣いているのだろうか。
自室に戻った尚隆は、伴侶を想い、密かに正寝へ向かった。
* * * 68 * * *
静まり返る金波宮正寝の回廊を、延王尚隆は忍びやかに進む。ここを歩くのも久しぶりだ、と思う己に、尚隆は苦笑する。奏と蓬山に分かたれていたのは、ほんの十日ほどだというのに。
互いに一国の王。隣国とはいえ、最も速い騎獣の脚でも一日かかる距離に住まう。十日会えないなど、普通のこと。いや、それ以上顔を見ないことのほうが多いくらいだ。そんなことは、二年前に初めて想いを交わしたときから分かっていた。
怖じける娘を、あやすように抱きしめ、ゆっくり心と身体を開いていった。出会いから別れまで、たった半月余りでありながら、甘く濃密な夜を過ごした日々。玄英宮でのあのときように、尚隆は金波宮にて愛しい伴侶を毎夜訪れていた。
今の状況が当たり前でないことなど、分かりきっているつもりだった。それなのに、会えない日々がこんなに長く感じられるなど。己の執着の強さに、我ながら呆れてしまう。そう自嘲しながら、尚隆は伴侶の私室の扉を見つめる。
そっと扉を開けると、伴侶は榻に坐り、大きく息をついていた。蒼褪めたその顔は己の想いに沈みこみ、尚隆に気づかない。尚隆は低く静かに伴侶の名を呼んだ。
「──陽子」
「尚隆……」
疲れた顔を見せる伴侶は物憂げに立ち上がり、そのまま黙して尚隆に身を預けた。その華奢な身体を、尚隆もまた黙って抱き寄せる。事実を故意に隠していた尚隆を責めることすらしない伴侶に、かける言葉はない。
(──どうして彼女を連れてきてくれなかったの?)
風来坊の太子は、尚隆が思ったとおりの言葉を吐いた。延王は景王を奏にお披露目してくれると思ったのに。卓郎君利広は恨みがましく告げた。宗王一家は延王を動かした景王に関心を持っている。だからこそ。
(秘密は、秘密のままにしておいた方がいいよ)
余計なことは言わない、と利広は約した。少なくとも尚隆はそう取った。事が公になれば、利広も困った立場となるだろうから、それは当然と思う。そして。
蓬山での出来事を、陽子はあまりにも淡々と語った。自ら正されるのを待て──そんな玄君の無情な応えに憤ることもなく。見捨てることなどできない、と言い募った女王とは思えぬほどだった。
陽子が蓬山で何を見、何を感じてきたのか。今、それを訊ねるのは憚られた。
報告の際、陽子は蘭雪堂に李斎を伴わなかった。景王陽子は、天の理を飲み込んだのだ。臣の立場にある李斎が納得できぬことを、陽子はきっと悟ったのだろう。
潤んだ瞳で見上げてくる伴侶と口づけを交わした。久しぶりの逢瀬。だが切羽詰まるその唇は、甘いひとときを求めてはいない。慰めあうかのように、ただひたすら、互いの唇を味わった。
張りつめた空気を纏う細い身体を抱きしめながら、尚隆は何も言えずにいた。苦いものを黙して飲み下す伴侶にかける慰めの言葉など思いつけない。やがて、小刻みに肩を震わせた伴侶が、微かに囁いた。
「──ごめんなさい」
何を謝るというのだろう、謝る必要などないのに。故郷を恋うることは、何も恥ずかしいことではない。
蝕を起こしてもあちらへ帰りたい──。
陽子がそう懇願してから、まだたったの二年しか経っていないのだ。だから尚隆は伴侶に問い返した。
「何を謝る?」
「ごめんなさい……」
そう繰り返しては涙を零す伴侶の背を、髪を、尚隆はただ撫で続けた。明日、再び虚海を渡る尚隆には、嗚咽を堪える伴侶に、泣いていいとすら言えなかった。そして──伴侶の詫びる言葉を受けとめきることもできなかった。
あちらが恋しいか。
そう問うことは、今尚できない。恋しい、と──言われてしまったら。そう思うと、胸が震える。ごめんなさい、と詫びる言葉の裏に、故郷を恋うる強い想いを感じてしまうのだ。
もう謝るな、と耳許で囁いて、しがみついて涙を零す伴侶を抱え上げた。謝罪が拒絶に聞こえるなど、心乱す伴侶に言えるはずもない。小さく頷く伴侶を牀に横たえて、きつく抱きしめた。
──俺を置いて行こうとするな。
そう告げたなら、虚海を渡って行くのはあなたでしょう、と返されるのだろう。だから──尚隆は何も言わずに伴侶を熱く抱いた。
2007.03.10.
お待たせいたしました。長編「黄昏」連載第34回をお送りいたしました。
少し休む、と言いながら、「桜」にめげて「黄昏」書いている私でございます。
そしてやっぱりまだ「帰還」に辿りつけませんでした。
──気長にお待ちくださいませ。
2007.03.10. 速世未生 記