黄 昏 (35)
* * * 69 * * *
虚海を越える前夜、延王尚隆はもう一人の胎果の王と共に過ごしていた。心乱す伴侶を抱きながら、疾く過ぎ行くな、とこれほど思う夜もなかった。しかし。
明けぬ夜はない。
尚隆は空が白む前に起き上がる。隣で眠る伴侶が僅かに身動ぎした。目が覚めているだろうと思っていた。というより、きっとまんじりともしていないのだろう。
身支度を済ませ、横たわる伴侶を見つめた。涙の痕が残る頬にかかる髪を掻き上げ、そっと耳朶に唇をつける。それから、少し眠れ、と囁いた。睫毛を少し震わせて、伴侶は微かに頷いた。
尚隆は清香殿に戻り、牀にどさりと身体を投げ出した。休めと促した氾王の顔が脳裏に蘇り、口許を歪める。範の奴に言われるまでもない。眠りが必要なのは、己も同じだと分かっている。余計なことを考えている暇はない。尚隆は目を閉じ、しばし仮眠を取った。
朝になり、尚隆は蘭雪堂に向かう。蘭雪堂には既に景王陽子が姿を見せていた。少し疲れた顔をしながらも、陽子は爽やかに笑って問う。
「おはようございます。──休めましたか?」
「なんとかな。いざとなったら悧角の背で眠るさ」
尚隆の軽口に、陽子はくすくすと笑い声を漏らす。互いに平静を装い、二人は小さく息をつく。陽子は気を取り直したように、お茶でも飲みましょうか、と用意を始めた。陽子が茶を淹れ終わる頃には、延麒六太を除く全員が蘭雪堂に揃っていた。
今日、延王尚隆は、蓬莱で発見された泰麒を迎えに行くために虚海を渡る。大きな蝕が起こることを覚悟しなければならない。そのため、蘭雪堂に集った王と麒麟は、どこで呉剛の門を開くかを検討した。虚海の果てが望ましく、それも陸地からできるだけ離れるに越したことはない。が、遠く離れていれば被害を免れるというものでもないのが蝕の度し難いところだった。
そして、騎獣は虚海を越えられない。尚隆は麒麟に使令を借りる必要があった。協議の結果、最も脚の速い六太の悧角と景麒の班渠を借り受けることとなった。
全ての采配を終わり、一同はそれぞれの持ち場へと散っていく。陽子と景麒は政務を執りに戻り、廉麟は蓬莱へ向かった。氾王と氾麟は崑崙捜索組への連絡手配のため、蘭雪堂に残る。そして尚隆は、清香殿にて六太が戻るのを待った。
やがて、全ての手配を整えて戻った延麒六太が、清香殿の露台に降り立った。疲れを見せる半身を労い、尚隆はその肩を軽く叩いて笑みを送る。
「──待ちかねたぞ」
「泰麒は?」
「なんとか無事だそうだ」
「──なんとか、か。急がないとな」
事情を察する六太は眉根を寄せて応えを返した。そして、玄君に言われたとおりに采配した書面と、携えた御璽を尚隆に差し出す。見守る六太の目の前で、尚隆は書面にざっと目を通し、御璽を押印した。
「──これで、泰麒は虚海を渡れるんだな」
六太は感慨深げに呟き、大きく息をついた。尚隆は黙して頷く。六太は尚隆を見上げ、真摯な目を向けた。
「──尚隆、泰麒を頼む」
「任せろ」
尚隆は不敵に笑い、大きく頷いた。それから少しの間、伝えなければならない情報を互いに語る。雁の官吏たちは他国にかまける主に呆れながらも仕事をこなしている。そう語る六太に笑みを返した。無論、尚隆は国の心配など無用と知っていた。
「──陽子は、どうだ?」
「平静を保とうとしている」
「そうか……」
躊躇いがちに訊ねた六太は、溜息をつきつつもそれ以上問うことはなかった。そして、お前はどうなんだ、と口に出すこともなかった。
「これが本当の、運を天に任せるってやつだ」
言って六太は使令を呼ぶ。足許から濃い灰色の毛並みの三尾の狼が現れた。尚隆は悧角に騎乗し、行ってくる、と片手を挙げる。
「──悧角、頼んだぞ」
六太の掛け声をとともに悧角はふわりと舞い上がった。これから半日をかけ、できるだけ大陸から遠ざかる。景麒から借り受けた班渠と、気脈に隠伏した無数の使令がそれに従う。最も脚の速い使令は疾走する。金波宮はあっという間に見えなくなった。
* * * 70 * * *
遁甲する数多の使令を従えて、悧角は雲海の上をひた駆ける。目に見えぬ無数の気配を背に感じ、延王尚隆は苦笑する。
まるで、蓬莱へ出陣するようだ。
まあ、ある意味出陣だな、と尚隆は自嘲する。先ほど氾麟の使令が報せを齎した。泰麒は、こちらのことを覚えていないようだ、と。
記憶がない泰麒は、迎えに行く尚隆を拒むかもしれない。主の拒絶に、度を失った傲濫がどういう反応を示すかは明白だ。それだからこそ、泰麒をあちらに置いておくわけにはいかないのだ。玄君が泰麒帰還を許したわけは、それもあるのかもしれない。少なくとも尚隆はそう思っていた。
泰麒は、記憶を失っている──。
道理でこちらに帰れないはずだ。麒麟は王の側にいなければ生きられない生き物だ、と廉麟は嘆いた。しかし、覚えていないのならば、帰ろうにも帰りようがない。
角を失ったからか。それとも、王と別たれたことが、記憶の喪失を生んだのか。麒麟にとって王との離別はそこまで辛いことなのか。
己には分からない感情だ、と思いつつ、尚隆はふと考える。あちらとこちらを行き来し、妖魔ですら従える神獣麒麟は王に服従する。そして、その麒麟が命を落とせば、王の命もまた喪われる。互いに縛りあう、主従関係。半身といわれるわけだ。そして、その麒麟に影のように付き従い、守護する使令。
「──班渠」
尚隆は景麒の使令に声をかける。景麒に従い、ともに虚海を越えて蓬莱へ行ったことがある班渠。はい、と姿を見せぬ使令は静かに応えを返した。
「お前は、蓬莱で暴れる妖魔を見たことがあるな?」
蓬莱まで主を迎えに行った景麒を追い、塙王の放った妖魔が虚海を渡った。そして、景麒が説明をする前に、景王陽子を襲ったのだ。
あんなふうに、泰麒の使令が暴れているのならば。そう呟き、陽子は肩を震わせた。何も知らずに襲われた陽子は、あのとき、冷静さを欠いていたはずだ。客観的な意見を聞いてみたかった。
「お前が見たものを知りたい。──差し支えのない程度でよいから」
是、と答えた班渠の話に耳を傾ける。蓬莱に現れ出た妖魔は蠱雕。巨大な妖鳥に、陽子は自失した。そんな陽子に景麒は水禺刀を差し出し、戦いを促した。何も知らぬ陽子が景麒の要請を呑むはずもない。業を煮やした景麒は、陽子に賓満を憑けた。そして、冗祐が陽子を動かしたのだった。
「──それは陽子も気の毒だな」
聞いて尚隆は苦笑する。六太の語る現在の蓬莱は、剣など使うことがない。何も知らぬ十六の娘が、いきなり剣を振るうなど、現実離れしている。班渠は淡々と続けた。
「──事態は逼迫しておりましたから」
「それも分かる」
偽王に助力した塙王は、妖魔を蓬莱に送りこむほどに、自暴自棄になっていた。そこまでするからには、只人であるうちに胎果の新王を始末したかったに違いないのだから。
しかし、陽子は生き延びた。景麒と契約を交わし、知らずに死なぬ身体となり、慶の宝重を携えて。そう、天命ある限り、王は死なない。陽子に降りた天啓とは、何だったのだろう。慶東国が、蓬莱から若き女王を迎える意味とは、いったい何なのだろう。
(もしかして、あれが天意なのかもな)
延麒六太の呟きが、胸に蘇る。天は胎果を集めて何をしたいのか。常世の何を変えたいのか。
景王陽子は複数の国同士が協力しあうことを呼びかけた。そして蓬山はその全てを禁じることはなかった。王が己の国のみ考える時代は終わったのか。
変わり者の胎果の王と言われてきた延王尚隆でさえ、そこまで考えることはなかった。それくらい斬新なことを、景王陽子は提示する。それが天意ならば、常世はこれから変遷を遂げるだろう。
そして、そんな隣国の女王は延王尚隆の伴侶。
必然のように出会い、惹かれあった。天啓が降りた、と不覚にも思うほど、陽子は尚隆の心を捉えて離さない。
不意に背筋に悪寒が走った。天意を信じたことなどない。しかし、天が実際に存在することを尚隆は知っている。
この結びつきが仕組まれたものだとしたら──?
そんなはずはない。尚隆はゆっくりとかぶりを振った。
2007.04.13.
大変長らくお待たせいたしました。長編「黄昏」連載第35回をお届けいたしました。
──まだ「帰還」に辿りつきませんね(苦笑)。もう、成り行きに任せます。
半日かけて虚海の果てに赴く尚隆は、暇に任せて考えすぎるくらい考えるだろう。
そんな風に妄想すると、止まらなくってしまうのです。
次回もきっとまたお待たせしてしまうと思います。
申し訳ございませんが、気長にお待ちくださいませ。
2007.04.13. 速世未生 記