黄 昏 (36)
* * * 71 * * *
半日をかけて虚海の果てに到着した。付き従う数多の使令たちに声をかけ、延王尚隆は呉剛の門を開く。海に映る月の影を潜り、蓬莱へと向かうのだ。
暗い海に、白い月が影を映す。そして、その影は、波に縫い留められた。海が泡立ち、風が逆巻く。荒れ狂う波が激しい飛沫を上げる。
──蝕が起こる。
尚隆が起こすこの蝕で、また卵果が流されるのだろうか。己もそんな風に誰かが起こした蝕で流されたのだろうか──。大きく首を振り、尚隆は白く輝く真円の月影を潜った。
光に満ちた短い隧道を、五百年ぶりに抜けて、蓬莱の海上に飛び出す。凪いだ暗い海を、疵のように細い月が照らしていた。四方に陸の光は見えない。
──これが、今の蓬莱。伴侶である景王陽子が、二年前まで住んでいた世界。
いや、病んだ泰麒がいる世界だ、と尚隆は気を引き締める。ひとりでは帰ることができない泰麒を連れ戻すために、はるばる虚海を超えてやって来たのだ。未曾有の数の使令が、すでに岸辺に向かっている。
凪いでいたはずの海は、見る間に荒れ狂い、風が飛沫を吹き散らしていた。気脈が乱れ、怒涛となって海を泡立たせ始める。交わってはならない二つの世界を、故意に繋げたせいで。
己の存在が、この世界をも揺るがす。それを目の当たりにし、尚隆は瞑目する。考え得る限りの対策をとったつもりだが、それが、どこまで功を奏すか。そんなことは、やってみなければ分からないのだ。己の弱気を振り払い、尚隆は目を開けて前を向く。
ここに、ここに。
数多の使令が、鴻溶鏡によって裂かれた妖魔が、黄海から召集された妖魔が、そう呼ばわりながら岸辺を目指す。その叫びは、己の使命を忘れた麒麟を呼び寄せるために上げられる。そしてそれは、泰麒を迎える延王尚隆を岸辺に導くための呼び声でもあった。
悧角はその呼び声に応えるべく、荒れ狂う海上を疾走する。尚隆は、海から陸に吹く雨混じりの強い風を背に感じながら、じっと前を見据えた。
点のように見えた煌びやかな灯りは、次第に大きくなってきた。それとともに、暗いはずの夜空が、街の灯りを映して鈍く光る。月さえも薄れて見える、夜とは思えぬ光を放つ、人工的な街。己が知る故郷とはまるで違う街を、尚隆は声なく見つめた。
風は雨を含んで夜の岸辺へと突進する。それに押し流されるようにして、悧角は岸辺に辿り着く。吹き寄せられたのは、灰色の陰鬱な街だった。波頭が千切れて礫のように飛散する中、ひとつの影が汀に立ち尽くしていた。
「──主上」
麒麟の気配です、と悧角が低く囁く。尚隆は黙して頷いた。声を上げ続けていた数多の使令は、この邂逅に口を噤む。雨を孕んだ風だけが、変わらず唸り声を上げていた。
悧角が影に近づく。尚隆はただ、悧角の背からその影を見下ろした。見下ろされた者も、ただ尚隆を見上げてきた。
「──泰麒か」
延王尚隆は、おもむろに問うた。問われた者は、明らかに震えた。
氾麟の使令が、泰麒は何も覚えてないと報せてきた。そして、目の前にいる者は、尚隆が知る泰麒ではなかった。もし、泰麒が記憶を留めていたとしても、尚隆を延王と分かるわけもない。共に胎果、虚海を超えれば姿が変わる。尚隆はそれを目の当たりにしたのだった。
──ただ、濡れた髪が巻き上げられて昏い光を弾き、それが尚隆にこの者特有の希有な色を想起させた。そして、その漆黒の双眸が。勁いものの撓められた、その色。
「泰麒、と言って分かるか」
尚隆は確信をもって再度問う。相手は頷いた。口は開かない。しかし、それで充分だった。度を失ったと言われていた使令も、姿を見せない。泰麒は記憶を取り戻している。そして、使令をも御している。
尚隆は悧角の背に騎乗したそのまま、有無を言わさず手を伸べた。指を相手の額に翳す。
「──延王の権をもって太師に叙す」
言うや否やの弾指、とっさに目を瞑った相手の、空を掻いた腕を握って悧角の背に引きずり上げる。自らは飛び降り、その獣の背を叩いた。
「悧角、行け!」
「延王、お急ぎを」
疾走する悧角を見送る尚隆の足許から班渠が現れて促す。その背に飛び乗り、そして尚隆は背後を振り返った。疾走する班渠の背から視線で岸を薙ぐ。
押し寄せる波に翻弄される岸と、岸に広がる見知らぬ街。これが今の蓬莱。泰麒が暮らしていた街。そして──。
陽子。
伴侶の名を、思わず呟いた。
両親がいるの。家があって友達がいるの。別れの言葉も言ってこなかった。何の準備もなくて、何もかも放り出したままで──。
そう訴えていた、涙に潤んだ翠玉の瞳。これが、伴侶の焦がれる故郷。尚隆を拒む陰鬱な灰色のこの街が、伴侶の恋う、二年前まで住んでいた世界──。
自嘲の笑みを浮かべ、ゆっくりと首を振る。すでに国はなく民もなく、ましてや知人の一人もいない。──ならばそれは、まぎれもなく異国だ。
胸に抱いていた故国を時間の中に沈め、現れた異国に尚隆は軽く目礼する。
──国と人の弔いに代えて。
* * * 72 * * *
病んだ泰麒を背に乗せて、逆巻き押し寄せる風を切り裂いて疾走する悧角。班渠に乗り換えた延王尚隆はそれを追う。
雨を孕んだ風が雲を引き裂き、千切れて飛び去る雲の合間から、時折細い月が覗いた。荒れ狂う海に映る月の影は怒涛に砕ける。押し寄せた波に翻弄されていた蓬莱の街の岸が、脳裏に過った。
(おれは、やだからな)
気紛れに虚海を渡る、己の半身の声が耳に響く。胎果の麒麟が、胎果の王を諫める声が。
(麒麟だけならちょっと風が吹く程度だけど、王が一緒だとなると大災害になる。あちらにだって被害は出るんだからな)
延麒六太は故郷を恋う景王陽子にそう諫言した。陽子は顔色を変えていた。流れ着いた巧にて、村人に蝕を起こした悪い海客だ、と詰られたことを思い出したのだろう。
そう、あのとき巧を襲ったあの蝕は、景王陽子が虚海を渡ったために起こった。その蝕でさえ、王が渡ったにしてはたいしたことがなかった、と延麒六太は断じたのだ。
延王尚隆が現れたことにより発生した高波は、蓬莱の岸を飲みこんだ。その被害は決して小さくはないだろう。しかし、それを知る術は、もうない。
陽子、己の存在が故郷に齎す災厄を、お前は受けとめることができるか──。
伴侶に胸で呼びかけながら、尚隆は瞑目する。王を縛る頚木は、これ程までに強い。そしてそれは、王が持つ権の絶大な大きさをも示す。そう、塙王は、己に逆らえぬ麒麟を使い、妖魔を蓬莱に送り込んだのだから。
胎果である延麒六太は、この五百年間、何度となく蓬莱に向かった。そして、蓬莱の変化をつぶさに伝えた。その話を聞き、尚隆は蓬莱の制度を取り入れさえした。現在の蓬莱を知ることにより、発達した蓬莱の技術を身につけた海客を優遇した。また、海客しか知り得ない蓬莱での情報を確認することにより、と己の身を海客と偽る者を排除する手立てをも整備した。
烏号にて海客の届出をした陽子は、郵便番号と市外局番を訊かれた、と驚いていた。そして、素直によい確認方法だ、と述べた。
己が直接蓬莱に渡れるとしたら、王は野心を持つのかもしれない。豊かといわれる蓬莱を見て、尚隆はふとそう思った。話に聞くのと実際に見るのでは、かなり感触が違う。
気紛れに虚海を渡りながら必ず尚隆の許に戻る六太。そんなふうに王に縛られる麒麟、そして、その麒麟に命を縛られる王──。尚隆は薄く笑う。
巧くできている。
大きな権を持ちながら、玉座に縛られる王と、大きな力を持ちながら、王に絶対服従する麒麟。蓬莱に妖魔を送った愚かな王は、そんな天の理に裁かれた。しかし。
尚隆は悧角の背に凭れかかる泰麒に目をやる。角を喪失したことにより麒の本性を失い、王の許に戻ることができなかった麒麟。本来であれば、そのまま蓬莱に捨て置かれ、命を喪っていただろう。非道と罵られようと、それが天の論理。それが、上に立つものの考え方だ。
そしてまた思い出す。見捨てることなどできない、と翠玉の瞳を燃え上がらせた女王を。その陽子でさえ、自ら正されるのを待て、という碧霞玄君の無情な応えを飲み下した。
ひとりで帰れないならば、連れ戻せばよい。そんな簡単な問題ではないと、尚隆には分かっていた。そして、やるしかないであろ、とあっさり言った氾王もそれは同じだろう。泰麒を殺めるのが嫌ならば被害は覚悟するしかなかろう、と断じたあの男も。
泰麒は、命を喪うよりも辛い目に遭うかもしれない。角を失い、転変もできず、王気も分からない、そんな麒麟を、戴の民は憎むかもしれない。
あなたがいる限り次の王は現れない。いっそ死んでください──。
もし、そんな言葉を投げかけられたなら。慈悲の生き物は、耐えることができるだろうか。
四方に陸が見えなくなったところで悧角と班渠は足を止める。荒れ狂う風に吹き飛ばされる雲の隙間から覗く月が海面に影を落とす。その細い光を波間に縫い留め、尚隆は再び呉剛の門を開いた。
蓬莱のそこここに満ちていた妖魔たちが海面に穿たれた真円の門を潜る。街を騒がせた怪異がぴたりと止むことになるだろう。しかし、己がそれを知ることは、もうない。複雑な想いを胸に抱きつつ、尚隆は門を潜った。
2007.06.30.
大変長らくお待たせいたしました、長編「黄昏」第36回をお届けいたしました。
なんとまあ、2ヶ月半ぶりの更新でございます。毎週更新していた頃が嘘のよう……。
そして、やっと、次が短編「帰還」の尚隆視点になりそうです。
──気長にお待ちくださいませ。
2007.06.30. 速世未生 記