黄 昏 (38)
* * * 75 * * *
氾王との密談を終えた延王尚隆は、ひとり清香殿に戻る。しばし休息する時間を与えられ、尚隆はどさりと榻に身を投げ出した。組んだ腕を枕にし、氾王の言を反芻する。
(蓬山に連れて行けば、お役目は終了ではないかえ?)
慈悲の生き物である麒麟や、王でありながら未だ王になりきれぬ景王陽子の前で口にできることではない。ましてや、戴の民であり、泰麒の救済を求めた李斎の前では。
碧霞玄君は、泰麒を連れ戻ったら蓬山へ連れて来るように、と命じた。治癒が叶うなら手を貸す、と。ならば、治癒が叶わないのであれば、泰麒の麒麟としての役目はそこで終わる。そんなことは、言われるまでもなく予想できていた。尚隆は心に蟠る問いを胸の中で弄ぶ。
即ち、天が泰麒捜索を咎めなかったのは何故か。
救う手立てが残されている者を見捨てることなどできない、という景王陽子の言は、天の論理ではない。
本来であれば、己でこちらに戻ることができなくなった麒麟は、そのまま蓬莱に捨て置かれ、命を喪っていたはず。現に、玄君は言った。自ら正されるのを待て、と。しかし。
卵果のときに蓬莱に流された麒麟と違い、鳴蝕を起こした泰麒には使令がついていった。しかも、蓬莱にはいるはずもない、強大な妖魔が。麒麟が命を落とせば、使令はその死体を食らって呪縛から解き放たれる。解放された妖魔が蓬莱で何をするかなど、想像もつかない。考えるだけでも背筋に戦慄が走った。
泰麒の使令でいて尚、大いなる兇と評された饕餮を、天はどうするつもりだったのか。この事態を、どう収集するつもりだったのか。
蝕は天の摂理の中にはない、と玄君は六太に明言したという。天が自在に蝕を支配することができていれば、泰麒や六太を蓬莱に流すことはなかった、と。
泰麒を仙に召し上げて呉剛の門を通す、という六太が提案した策を、玄君は否定した。が、戴に希望を、と訴えた李斎が玄君を動かした。それは天の理を熟知している延王が、若く清廉な景王に言い負かされたときのようで、尚隆は内心苦笑したのだが。
その後、玄君は己に与えられた権限を駆使し、泰麒救出の策を六太に授けた。それすらも、天の理の裏を掻いてきた尚隆や六太の所作のようで、複雑な思いを隠せなかった。
天さえも万能ではない。天もまた理に縛られる。そして、碧霞玄君を除き、天の神々が姿を現すことはない。天を縛る理の中には、直接人に関与してはいけないという文言があるのだろうか。
蓬莱で暴れていたらしい泰麒の使令は、迎えに行った尚隆の前には姿を現さなかった。泰麒は記憶を取り戻し、己の使令を御している。そして、常世への帰還を果たしたのだ。それは、天が望んだ結果ではないのか。
──天が、饕餮を回収するために深謀遠慮していたとしたら。もしや、雁の隣国慶に、虚海を隔てながらも戴の隣である慶に胎果の女王を配したのは、そのためだったとしたら。
(もしかして、あれが天意なのかもな)
延麒六太は感慨深げにそう言った。今までと違うことをしようとする胎果の王──。
(それに、胎果の王が立てば、胎果のお前が助力することも折り紙つきってわけだ)
言って六太は無邪気に笑った。それは胎果の麒麟も同じだろう、と返しながら、言い得て妙だと思った。
隣国に遣わされた、胎果の王。舞い踊る紅の炎に、ひと目で心を奪われた。これが俺の運命だ、と本気で思った。不覚にも天啓が降りたとさえ感じた。
それが、正に天の望みだとしたら──。
天は、盤上の駒を動かすが如く、人を動かすのだろうか。天は、王の身体だけでなく、心までも支配しようとするのか。王を縛る頚木とは、そこまで強固なものなのだろうか。
お前はあの男に下賜された贄。荒ぶる心を鎮めよ。そしてあの男はお前の枷。置いて逝くことはできまい。──互いに互いを封じあうがよい。
不意に胸に浮かぶ、天の声。それは、かつて伴侶が見たと語った夢。思い出すと同時に、ざわざわと背が粟立った。
あの夢が、正夢だとしたら──。
尚隆は固く目を閉じた。身が、震える。今まで、何かあるたびに否定してきた疑惑が、ついに延王尚隆を捉えたのだった。
* * * 76 * * *
控えめに扉を叩く音がした。己の考えに深く沈みこんでいた尚隆は、ゆっくりと目を開ける。誰何するまでもない。皆が休息を取っているはずのこの時間に訪ねてくる者など、ただひとりしかいないだろう。
大きく息をつく。応えを返すことなく、そのまま深呼吸を繰り返す。そして尚隆は窓の外に視線を移した。
碧霞玄君も延王尚隆も、己の持つ権と力の大きさを知る者としての立場は、そう変わらないのかもしれない。己が齎す影響を理解しているからこそ、自ら動くことはそうないのだ。故に、それを動かす者は、古きものを吹き飛ばす、新しき風。
しばしの沈黙の後、静かに扉が開かれた。尚隆はおもむろに目を扉に向ける。細い隙間からそっと滑りこむ華奢な身体。しかし、現れた景王陽子は扉の前に立ち尽くし、歩を進めることはなかった。
待つことしかできなかった女王は、蓬莱より帰還した王を物問いたげに見つめる。が、景王陽子は己の問いを口にすることを躊躇っているようだった。
尚隆は、押し黙り扉の前に佇む伴侶を目で促した。微かに頷き、翠玉の瞳を不安に翳らせた女王は、ゆっくりと尚隆に歩み寄る。
真摯な想いを以って人を動かす術を身につけた若き女王を、延王尚隆はつくづくと眺めた。鮮やかな緋色の髪と煌く翠玉の瞳。ほっそりとした身体に男物の長袍を纏い、凛然と立つ姿は人を惹きつける。──五百年後宮を持つことなく過ごした延王尚隆をも魅了した、麗しくも鮮烈な女。
枕許で足を止め、女王は尚隆を見下ろす。その眼を、冷静に見つめ返すことなどできない。輝かしい翠の瞳は、尚隆が秘める闇をも明らかにしてしまうのだから。
お前は、俺を動かすために遣わされたのか。人の世界に直接関与できぬ天が、膠着した状況を打破するために投じた一石なのか。
口に出してはならぬ問いを、延王尚隆は飲み下す。己も伴侶も、天に翻弄される身であることには変わりない。細い腕を引き、倒れこんできた伴侶の身体をきつく抱きしめる。
この愛おしい温もりでさえ、天に与えられたものなのか。そして──これが、隣国の女王を手折った報いなのか。
(──天の咎めは、これからやもしれません!)
激しい色を湛えた紫の双眸が、尚隆の胸を射た。感情を露にすることなど滅多にない、伴侶の半身の怒声が。
あのとき歯牙にもかけなかった慶の麒麟の怒りは、今の尚隆にとって、天の嘲りに聞こえた。隣国の女王を己の伴侶にするという前例のないことすら、所詮、天の謀なのだ。そう思うと腕が震える。尚隆は伴侶の華奢な身体を折れんばかりに抱きしめた。そして苦しげに喘ぐ伴侶をじっと見据えた。己を頼るものを救いたい、と純粋に願った清廉な女王を。
そんなに簡単なことではないと分かっていた。だから、安易に動くなと伴侶を諭した。大きな蝕を起こすことが必至の提案を、碧霞玄君が許すはずはなかった。しかし、真摯な想いは、全てを動かした。
それこそが、理をすり抜ける、天の本意だとしたら──。
天の望みどおり、尚隆は虚海を超え、死に瀕した麒麟と度を失った使令を回収した。危険な妖魔は天の摂理の許に戻った。泰麒を蓬山へ連れて行けば、延王尚隆に課せられた使命も終わりを告げるのだろう。
天がそこまで謀るならば。そして、この女が天から下賜された贄ならば、己の思うままにしてもよかろう。身の内に潜む昏い深淵から、そんな声がする。それは、甘く狂おしい誘惑だった。
豊かで美しい己の国を滅ぼしてみたい、と思ったのは、いつのことだったろう。今、腕に抱く女王を壊してしまいたい衝動に駆られる。与えられたものを壊したからとて、解き放たれるわけではないのに。
──いや、それは、寧ろ破滅による解放だ。
昏い欲望を抱く尚隆の双眸を、見開かれた翠玉の瞳が真っ直ぐに見つめ返す。その、潤んだ瞳に映る、醜悪な己の姿──。
そんな眼で見るな。
そう叫びそうになった、そのとき。
「──お帰りなさい、尚隆」
涙滲む瞳が慈愛に満ちた色を湛え、柔らかな笑みを浮かべる。華奢な腕を尚隆の背に回し、伴侶は優しくそう言った。尚隆は思わず瞠目した。その驚きは、身の震えさえも止めた。
昏い深淵に、小さな灯りが点る。その翠の輝きは、凍えた心を融かした。伴侶の一言は、闇に堕ちかけた尚隆を引き止めた。腕の中の伴侶は、愛しむように尚隆の背を撫で続ける。その小さな手の温もりは、強張る身体を緩めた。
そうだ、俺は帰ってきたのだ、俺を待つ、お前の許に。
五百年ぶりの故郷も、姿を変えた麒麟も、天の思惑さえも、伴侶の微笑みの前に融け去った。暁の太陽の如き紅の光に包まれて。
「──今、帰った」
尚隆は薄く笑い、掠れた声で応えを返す。笑みを湛えた伴侶は何度も頷いた。翠の瞳に映る己は、安らいだ笑みを浮かべていた。
俺に相応しい伴侶は俺が決める。他人の思惑など関係ない。
かつて、躊躇う伴侶にそう言った。初めて自ら欲した女を、どうあっても手に入れたいと願った。そして、その望みは叶えられた。
この温もりを手放すことなどできない。それが謀でも構わない。
尚隆は、己を抱く唯一の女に、熱く口づけた。
2007.08.02.
大変お待たせいたしました。長編「黄昏」連載第38回をお届けいたしました。
短編「帰還」の尚隆視点、ようやく終わりました。
作者をも驚かせるかの方の胸の内でございました。
途中でどうしてよいか解らなくなり、筆が止まってしまったという次第でございます。
相変わらず、ちっとも終わりが見えませんが、何卒よろしくお付き合いくださいませ。
2007.08.03. 速世未生 記