黄 昏 (39)
* * * 77 * * *
延王尚隆が全身に漲っていた緊張は解れ、昏い光を宿していた双眸に光が戻ってきた。微かに震えていた腕が、柔らかく陽子を抱き返す。そして。
「──今、帰った」
薄く笑い、掠れた声で、伴侶は応えを返した。まるで、途方もなく遠くから、たった今、陽子の許に帰還したかのように。
そう──もしかして、このひとは、蓬莱に心を残してきたままだったのかもしれない。
それでも。尚隆は、泰麒を連れて、無事に戻ってきてくれた。そう思うと、陽子の目に涙が滲んだ。
五百年玉座を守り続けた稀代の名君でさえ、故郷に帰って、冷静でいられないのだ。そんな思いに胸が締めつけられた。もし、己が蓬莱に行っていたら──。そこで思考が止まってしまう。想像するのが怖かった。
かつて、陽子は故郷を捨てて、このひとを選んだ。延王尚隆を伴侶とすることは、陽子にとって、こちらに残って景王になることと同義だった。その決断を後悔したことはない。それなのに。
蓬莱に取り残された麒麟がいた。暴れる使令をなんとかするためにも泰麒を迎えに行く必要があった。それができるのは、この世に二人しかいない、胎果の王だけ。二度と帰れないと思っていた故郷が、突如眼前に現れたような気がした。
いや、その前から──最初に泰麒の話を聞いてからずっと、陽子は郷愁に囚われていた。故郷を恋うる気持ちを誤魔化していた。己が否定していたその想いを、伴侶である延王尚隆のみならず、碧霞玄君までが見透かしていたとは。陽子は自嘲する。
陽子が蓬莱に行っていたら、連れ帰らねばならない泰麒を放って、ふらふらと家に帰ろうとしたかもしれない。故に、碧霞玄君が景王ではなく延王を指名したのは正しかったのだ。伴侶の逞しい腕の中で、陽子は今更ながら納得したのだった。
「──目が、赤いな」
視線を求め、唇を重ね、温もりを確かめあった後、伴侶はそう言って微笑した。確かに、陽子は昨日、まんじりともせずに夜明けを迎えた。その後、蓬莱に向かう尚隆の背を見送り、蘭雪堂に待機していた。緊張が、ずっと続いているのだから、それも仕方がないだろう。
「少し、休め。まだ、予断を許さんからな」
さらりと口に出された伴侶の言葉に、陽子ははっとする。これから陽子は、尚隆や李斎とともに泰麒を連れて蓬山へ向かうのだ。ふと頭に浮かんだ疑問を、訊ねてみる。
「泰麒は……助かるだろうか」
「──分からぬ」
尚隆の応えは簡潔だった。陽子は碧霞玄君の言葉を思い出す。泰麒を連れ戻ったら蓬山へ連れて来るように、治癒が叶うなら手を貸す、玄君はそう言ったのだ。陽子は深い溜息をついた。
「──陽子、玄君が何と言うか、想像できるか?」
陽子をじっと見つめ、延王尚隆は低く問う。陽子はゆっくりと首を横に振った。
玄君が何と言うかなど、陽子には想像もつかない。しかし、捗々しい答えではないような気がする。治癒が叶うなら、ということは、叶わない場合もあるのだ。陽子ももう、楽観ばかりをしているわけではなかった。
陽子は王の顔で延王尚隆を見つめ返した。稀代の名君と称えられるこのひとは、碧霞玄君が口にするだろう言葉を予期しているのだろう。そう確信した陽子は、真っ直ぐにその思いを口にした。
「あなたには……想像できるんだね?」
「──そろそろ時間だ。お前も戻って少し休め」
尚隆は陽子の問いには答えず、薄く笑って言った。覚悟をしておけ、そう言われたような気がして、小さく頷いた。天ですら万能ではない、と陽子は既に知っている。
なんとか戴を救いたい。そのために、手を出すなと忠告しにやってきた隣国の王を説得した。大国雁の助力を得て、七カ国の王と麒麟が協力し、行方不明になっていた戴の麒麟を捜した。
麒麟たちが駆け回り、蓬莱でやっと見つけた泰麒。蝕を起こしてまで胎果の王が虚海を渡り、六年振りにこちらに連れ戻した。
その泰麒が、もしかすると、助からないかもしれない──。
考えれば考えるほど、全身の力が抜けていくような気がした。簡単なことではない。始めからそう断じていた隣国の王は、そんな陽子に優しく口づけた。
* * * 78 * * *
延王尚隆は景王陽子、戴国将軍李斎とともに泰麒を連れて蓬山へ向かった。氾麟が倒れるほどの腐臭を纏った泰麒に、麒麟は誰一人として蹤いて来ることができなかったのだ。門前で待っていた玄君でさえ、なんと、と呟いたきり絶句した。
蓬莱で会ったときの泰麒は、己の足で歩き、悧角にも騎乗していた。しかし、こちらに戻ってからというもの、一度たりとも目を開けていない。土気色の顔をし、深い昏睡に落ちている泰麒を、玄君は痛ましそうに見下ろした。やがて顔を上げた玄君は、呟くように言った。
「……これは妾の手には負えぬ。王母にお縋りするしかないであろ」
玄君の意外な言葉に、尚隆は目を見張る。五山の主と言われる西王母に指示を仰ぐというのか。天の神々は、人の前には姿を現さないのではなかったか。尚隆が口に出せぬことを、李斎は率直に訊いた。西王母が実際に存在するのか、と。その問いに、玄君は即座に首肯した。
「無論、おられるとも」
来や、と促す玄君に従い、廟に入る。そこには尚隆も遥か昔に足を踏み入れたことがある。陽子はもっと最近来たことがあるはずだ。王が、天勅を受けた後に西王母と天帝の像に進香を行い、誓いの言葉を述べるために訪れる廟なのだから。
しかし、尚隆は西王母の顔を覚えていない。あのときはそれが重要なことだとは思っていなかったために、見過ごしたのだったろうか。が、その疑問にはすぐに答えが出た。
無数の文様が掘り込まれた壇上、白銀の屏風を背に設えられた白銀の御座。そこに坐る白い石の人物像の胸元までを、四方の柱間に掛けられた珠簾が隠していたのだ。
玄君は二神の像に一礼し、更に奥へ向かう。尚隆は玄君の後に続き、その所作を見守った。壇の奥にある壁の左右にある白い扉のうち、左のひとつを玄君は叩いた。しばし待つと、やがて扉の向こうから、ちりんと璧を打ち合わせるような音がした。玄君は扉を開ける。廟堂の大きさから考えて、その扉の向こうなどあるはずもないのに、扉の奥には白い堂が続いている。
いったいどんな呪がかけられているのだろう。今は考えるな、と己に言い聞かせつつも、尚隆はその思いを抑えきれない。
そこは堂であって堂ではなかった。白い床は廟堂と同じほど、中央に壇があって白銀の御座があることは変わらなかったが、珠簾は上がっている。
まるで同じ堂室が二つあるようだった。が、こちらには天井がなく、奥の壁がなかった。壁の代わりにあるものは、純白の大瀑布。いかほどの高さがあるかも、どこへ流れ落ちていくかも分からない。辺りは白い水煙にけぶっているばかりだった。
その白い光が降りそそぐ玉座の一方に、女が座していた。玄君は恭しく跪拝する。玄君に倣って膝をつきながら、尚隆は玉座の女を窺い見る。
──これが、西王母。
五百年王として在りながら、尚隆がその姿を見るのは初めてだった。決して人の前には姿を現さない真の神の容貌は、驚くほど凡庸だった。まるで、見たらすぐに忘れろ、と言わんばかりに。
女仙が泰麒を西王母の足許に下ろした。ゆったりと座した王母は、目線だけを泰麒に向け、身動きひとつしなかった。
「……見苦しいことよの」
口を開いた王母の声は、ひたすら無機質で抑揚を持たなかった。王母に泰麒を助ける意志はない。そう確信させる声を聞きながら、尚隆は溜息をつく思いだった。
そのまま尚隆は王母と玄君のやりとりに耳を傾けた。慈悲を願う玄君に応えを返す王母の声は、あくまでも情緒を感じさせなかった。王母は身ひとつ、表情ひとつ動かさずにいる。
「……使令は預かる。清めてみよう」
音もなく落ちる瀑布に彩を吸い取られた声がそう言った。それは、尚隆の予想に違わない応えであった。天が望んでいたのは、蓬莱で暴れていた危険な妖魔の回収のみ。病んだ麒麟を治す意志などない。聞いて延王尚隆は溜息を飲み込み、景王陽子は目を伏せた。が。
「泰麒は」
静かに、しかし、明確に、玄君は問うた。内心の驚愕を隠し、尚隆は碧霞玄君と西王母を窺う。玄君の表情は読めない。そして、西王母は動きを止めた。
沈黙が落ちた。誰も邪魔できぬ神の沈黙が、その場を包んだ。
2007.08.28.
大変お待たせいたしました。長編「黄昏」連載第39回をお届けいたしました。
天の神に初めてまみえ、延王尚隆は何を思うか。
「黄昏の岸〜」を読んだときから気になっておりました。
捏造必至でございますが、どうぞお許しくださいませ。
2007.08.29. 速世未生 記