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黄 昏 (40)

* * *  79  * * *

「お見捨てにならないでください」

 静かな声が、その沈黙を破った。延王尚隆は首を廻らし、声の主を探す。それは、今まで黙して控えていた李斎であった。彫像のように動きを止めていた西王母の眉だけがぴくりと動いた。
「戴にはこの方が必要です」
 無機質な王母の声とは対照的に、李斎の抑えた声には切ない願いが籠められていた。人であれば、必ず心を動かされるであろう、真摯な想いが。しかし。

「病を取り除いても、何ができるようになるわけでもない」

 あくまでも情感のない応えが返される。その身体で兇族を討つことができるか、と王母に畳み掛けられ、李斎は失われた右の上肢を握りしめた。いいえ、と答えながら、李斎は俯くことなかった。

 今度は西王母と李斎との問答が始まった。尚隆はじっと成り行きを見守る。李斎はかつて碧霞玄君を動かした。しかし、今その眼前に立つ者は、五山の主と称される女神だ。その考えは、人の理からはかけ離れているだろう。
 冷徹に問いを重ねられ、李斎は訥々と応えを返す。その胸には、何が去来しているのだろう。荒んだ国土と失われた朋友、そして、国を蹂躙した僭主の姿なのだろうか。否、李斎の言には阿選に対する怒りはなかった。
 己の気持ちを救うためだけに足掻いている。そう告白しながら、西王母に相対する李斎には無私の輝きがあった。尚隆は思わず瞑目した。遥か昔、己も同じく足掻いたのだ。己が背に担う、国と民を守るために。そしてその足掻きは、実を結ばなかった。しかし、それは過去のことだ。今は。

 剣を持つことのみが戦いではない。

 延王尚隆は目を開けて、女神に挑む戴国将軍李斎の戦いを見守った。
 李斎はしばし泰麒を見つめ、壇上の王母に視線を転じた。そして、静かに告げる。台輔に奇蹟など望んでいない、と。そして、笑みさえ湛えて続けた。

「こうして奇蹟を施すことのできる神々ですら戴をお救いはくださらないと言うのに、どうして台輔にそれを望むことができるでしょう」

 ぴくりと女神の眉が動いた。玄君は哀しげに目を伏せ、景王陽子は目を見張って李斎を凝視する。誰も口を開かない。そんな中で、毅然と背筋を伸ばし、李斎は願いを語る。
「けれども、戴には光が必要です」
 それさえなければ、戴はほんとうに凍って死に絶えてしまう。李斎はそう言葉を結んだ。
 王母は何も語らない。李斎の言葉に心動かされた様子もない。そもそも、神に心などあるのか、それすらも分からないのだ。
 王母はじっと双眸を何もない宙に据えている。その視線の先には、いったい何があるのだろう。人には見えないものを見ているのだろうか。

「……病は祓おう。それ以上のことは、今はならぬ」

 やがて泰麒のほうへ視線をやり、王母は答えた。そして、機械的な動作で手を挙げた。
「退がりゃ。……そして、戻るがいい」
 王母が言い終わるや否や、轟音を立てて瀑布が玉座の前に流れ落ちてきた。その途端、全てが水煙に呑み込まれる。耐え切れずに目を閉じて、次に開けたときには。
 緑に覆われた山腹。がらんとした石畳。そして、穏やかに雲海から打ち寄せる波の音。
 そこは廟堂の裏に広がる石畳の上だった。轟音を立てる瀑布も、入ったはずの堂も消え失せている。いつの間に、と尚隆は愕然とする。移動させられたのか、それとも、王母の方が移動したのか、それすら分からない。
 唖然としているのは尚隆だけではなかった。陽子も、李斎もそれは同じ。取り残された感がしていた。しかし。
 周囲には女仙に囲まれた泰麒がいた。そして、玄君が、ただ一人、石畳の上に平伏していた。深々と叩頭していた玄君は身体を起こし、李斎を振り返った。
「連れて戻られるがよい」
 王母が請け負ったからには、泰麒の穢瘁は必ず治る。そう言う玄君を、李斎は黙して見返す。やがて、李斎は静かに問うた。
「……それだけなのですね?」
 玄君は無言で頷いた。その臈長けた面に浮かぶ、深い憂い──。
 泰麒は、命が助かっただけなのだ。角を失くして転変もできず、身を守る使令とも引き離された泰麒に、いったい何ができよう。尚隆は小さく溜息をついた。

* * *  80  * * *

 雲海の上を飛びながら、延王尚隆は徒然に思う。誰も見たことがない天は、確かに存在した。そして、天上に住まう神との謁見は、一方的に打ち切られた。これ以上の問いは許さない、とばかりに。
 玄君は化け物の部類だ、と六太は評する。蓬山で玄君が見せる手妻は、王や麒麟でも理解できない。いったいどんな呪がかかっているものやら分かりはしなかった。無論、訊ねても答えてくれる親切なお人ではない。その玄君が最後に見せた憂いに満ちた貌。

(……病は祓おう。それ以上のことは、今はならぬ)

 西王母はそう断じた。故に、泰麒は命を繋いだ。が、それだけだ。足掻いてみるがよい──女神の声なき声が聞こえたような気がした。それは、嘲りでも憐れみでもない。
 蓬莱で暴れていた使令の回収が済み、麒麟の力を喪失した泰麒の役目は終わった。泰麒の命が尽きれば速やかに次の泰果が実る。そして新たな麒麟が、未だ行方不明のままの王に代わる新たな王を、いずれ戴に齎す。全てが天の摂理の内に戻ったのだ。
 今、泰麒の命を救ったとて、泰果の生る時期を多少遅らせるだけ。大勢に影響はない。恐らく王母はそう判断したのであろう。少なくとも尚隆にはそう取れた。

(自ら正されるのを待て)

 それが天の意向だ、と玄君は告げた。信じ崇めている神が、仁道をもって国を治めよと説く神が、冷酷にそう命じる。人は、それに耐えられない。そう、李斎もそれに耐えられなかった。
 
 泰麒や泰王にどんな罪があったというのか。

 李斎は玄君にそう食ってかかったという。玄君は黙して答えなかった、と六太は伝えた。玄君が沈黙した理由を、尚隆は予想できた。

 泰麒は鳴蝕を起こしたことが、泰王は行方知れずになったことが罪なのだ。

 罪にはそれ相応の罰が与えられる。それは天が予め定めた教条的なもので、玄君にはどうしようもないことなのだろう。
 そしてそれは、為政者としては当然の考えだ。摂理に縛られる者が、上から見て下した冷静な判断。上に立つ者は、理を曲げて個を守ることなどできないのだ。尚隆は大きく嘆息する。

 ──神が人に姿を見せぬはずだ。

 天が、蓬莱で暴れる危険な妖魔を回収するために打った手。そんな深謀遠慮を、人に理解できるはずもない。目に見える事柄は、建前に過ぎない、と聞かされれば尚のこと。
 天の摂理どおり、戴が自ら正されるのを待つのか。それとも、理の隙間を縫って力を失った泰麒を連れ帰るか。どちらが戴のためによいのかなど、誰にも分からないのだ。そう、神々にすら。
 泰麒が身罷り、新たな泰果が実り、育って王を選ぶまで、どのくらいかかるのか。麒麟としての能力を失った泰麒が、戴に戻って何をできるのか。答えは歴史のみが知るところ。悠久の時を過ごす神なれば、そう考えてもおかしくはない。

(──玄君、戴はそんなに保ちません)

 李斎はそう嘆願した。尚隆は皮肉な笑みを浮かべる。かつて、折山の荒、亡国の壊と評され、妖魔でさえ飢えて死んだ雁でさえ、三十万の民が残っていた。人が死に絶え、完全に国が滅びることなどないのだ。
 少なくとも、天の神々はそう思う。そして、玄君がそれを人に伝えることなどない。それは人に耐えられる事実ではない。

 ──李斎に、耐えられるわけがない。

 李斎は、今、戴で生きている人間なのだから。それでも。
 今、瀕死の状態になりながらも確実に生きている者を、何故、見捨てられよう。怨詛の念に塗れながら、それでも生きようとしている麒麟を、見殺しになどできない。その思いが皆を突き動かしている。そしてそれは、碧霞玄君でさえも動かしたのだ。

 ──人に交われば情に流される。情に流されれば判断が鈍る。故に、天は、人に姿を見せない。

 それでは、西王母は、何故その姿を人の前に現したのか。碧霞玄君の嘆願に耳を傾けたからなのだろうか。それとも──。
 唇に笑みを浮かべ、尚隆は短く息をつく。玄君の手妻が分からぬように、神の考えなど分かるはずもない。全ては尚隆の憶測に過ぎない。
 泰麒は蓬莱から常世に戻り、命を取りとめた。後は回復を待つばかりだ。もう、助力できることは少ないだろう。そう思いながら、尚隆は泰麒に視線を落とした。そして、憂いに沈む景王陽子をそっと見つめた。

2007.09.25.
 大変お待たせいたしました。長編「黄昏」連載第40回をお届けいたしました。
 とうとう40回でございます。そしてまだ終わりません……(泣)。 けれど、ここまで書いてきて思ったこと。 それは「黄昏」は尚隆の物語なのだ、ということでございます。 なので、あと2〜3回で終わりそうな気がしてまいりました。
 なんとか、目標に掲げましたとおり、今年中に完結させたいと思います。 けれど、やはり気長にお待ちくださいませ。

2007.09.25. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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