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黄 昏 (41)

* * *  81  * * *

 泰麒の助命は果たされた。治癒が叶うようなら手を貸そう。そう言っていた碧霞玄君は、約束どおり助力してくれた。

 それなのに、何故、こんなに心が重いのだろう──。

 蓬山からの帰り道、雲海を見下ろしながら、景王陽子は深い溜息をつく。そして、陽子は己の物思いに沈んでいった。

 景麒に連れられて、蓬山に天勅を受けに行ったのは、二年前。あのとき、陽子は期待と不安に胸を躍らせていた。そして蓬山では、思ったとおり、数々の不思議な出来事が待ち受けていた。
 朱塗りの扉の向こうに、玻璃の階段があった。その透明な階を上ることにより、頭に天勅が刻みつけられた。その後、天帝と西王母の像の前に跪き、誓いの言葉を述べた。それから、現れた玄武という巨大な亀に乗って雲海を渡り、金波宮へと下った。
 天勅を受けるのは二度目である景麒は、終始落ち着き払っていた。奇妙な感覚を味わいながらも、こちらはこういうもの、と陽子は全てを丸呑みしていた。けれど──。

 泰麒は常世に戻ってから一度も目を開けていない。麒麟が誰も近寄れぬほどの穢瘁に塗れた泰麒を連れて、景王陽子は延王尚隆、戴国将軍李斎とともに蓬山を訪れた。
 玄君は泰麒を見るなり、妾の手に負えぬ、と言い、西王母にお縋りすると断じた。思いがけず、西王母に目通りが叶うこととなった。五百年生きた延麒六太が、化け物の部類、と称する碧霞玄君よりも、更に上位の女神に。五百年玉座に君臨する延王尚隆でさえ、天上の神々に拝謁するのは初めてだと言った。

 天は、ある。神々は、実在する。

 玄君に倣って西王母に跪拝しながら、陽子はその思いを噛みしめた。
 どこから流れ、どこに落ちるかも分からない、音を消された大瀑布を背に、西王母は淡々と語った。そして、命を下すと同時に、音を戻した瀑布の後ろに消えた。
 あのときは驚きが勝って、そんなことを思う余裕もなかった。が。思い返せば返すほど、疑問は増すばかりであった。

 王母は、実際にあの場にいたのだろうか。それよりも──血肉を備えた存在なのだろうか。

 声も動作も機械的だった。そして、あの瀑布。あれだけの大瀑布が、ただ水飛沫だけを散らしているなど……。
 あるはずもない堂室に入り、気づけば外にいた。そのとき、王母も、瀑布も、何もかも消え失せていた。もしかして、初めから外にいたのではないか。まるで、立体映像を見せられていたような、そんな奇妙な感じが否めない。けれど。
 西王母に跪いたとき、床は確かに堂室の感触だった。外の石畳とは違ったはず。そう考えると、堂室も西王母もあの場に出現したものとも思える。それとも、目だけでなく、五感の全てが謀られていたのだろうか──。
 そう思うと、背に悪寒が走る。天が実際にあるのならば、天もまた過つ。そして、天が見せる手妻にも、恐らく仕掛けがある。それは、陽子が蓬莱にて当たり前に使っていた文明の利器のようなものなのではないのか。こちらの者がいきなりあちらに行ったとしたら、きっと驚くだろう。そんなふうに、天の神々からすれば、至極当然のことではないのか。

 そんなことを、誰に聞けよう。

 蓬山で育った六太は、玄君の不思議な所作に慣れ切っていて、疑問を感じたりしないだろう。戦国の世から来た尚隆は、現在の蓬莱を、実際には知らない。無論、常世の人間である李斎も。そして──真実を知る玄君に訊ねても、恐らく答えは返ってくるまい。

 天もまた条理の網の中にあるのだと碧霞玄君は言った。動かすことは誰にもできぬ、と。

 神を、人を、常世を縛る理とは、誰が何のために作ったものなのか。この身は、そんなわけの分からないものに縛られているのか。

 昇山の凄まじさを、李斎は切々と語った。陽子はそんな厳しさを知らずに登極した。

 胎果の陽子が玉座に就く理由は、いったい何なのか。天は、何を望んでいるのか。

 目眩を感じ、陽子は軽く首を振る。王は玉座に坐る以外に命を繋ぐ術はない。そして、慶の民は新王を待ち望んでいた。此度の泰麒捜索も、王が斃れた後の道を引くために必要との考えもあって始めたものでもあった。
 ふと視線を感じ、陽子は目を上げる。延王尚隆が、じっと陽子を見つめていた。

 迷うなよ、お前が王だ。

 いつも陽子をそう送り出してくれる、隣国の偉大な王が。

 己の迷いに沈みこむよりも、やらなければならないことがある。景王陽子は前を見やり、背筋を伸ばした。

* * *  82  * * *

「泰麒は──!」
 蓬山から戻ると、麒麟たちが待ちかねたように駆け寄ってきた。麒麟には麒麟の気配が分かる。留守居をしていた者が、いち早く気配を察知し、泰麒の帰還を報せたのだろう。政務を執っているはずの景麒までがその場にいた。
 延王尚隆は麒麟たちを見回し、小さく息をつく。六太も、廉麟や氾麟は勿論のこと、いつも能面のように感情を表さない景麒でさえも、切羽詰まった顔をしている。穢瘁が祓われたからこそ、泰麒の傍に近寄れると分かっているはずなのに。
 尚隆は、泰麒をそっと抱え下ろす。穏やかな顔をして眠る泰麒を見つめ、氾麟は声もなく涙を零した。そういえば、氾麟は蓬莱から帰還した泰麒の穢瘁に耐え切れず、気を失ってしまってそれきりだった。

「──泰麒は、もう大丈夫だ」

 尚隆は氾麟に目をやり、優しくそう言った。氾麟は小さく頷き、仄かに笑みを見せる。大きな瞳から、また涙を溢れさせながら。廉麟が瞳を潤ませ、そんな氾麟の小さな肩をそっと抱いた。そして、景麒は強張った頬を僅かに緩め、深く息をついた。
「玄君が……治癒してくれたのか? ──角は?」
 掠れた声で六太が問うた。その尤もな疑問に答える代わりに、尚隆は静かに首を横に振る。そうか、と呟いて、六太は悄然と俯いた。
「玄君は手に負えぬと言った。──西王母が、病は祓うと約した。だが、それだけだ、と」
 西王母の言を反芻しながら、尚隆は麒麟たちの顔をゆっくりと見回して、厳かにそう告げる。その場が、驚きの溜息に包まれた。

 それ以上のことは、今はならぬ。

 王母はそう言って消え失せた。そして気づく。今はならぬ、とは、もしや、時満つれば角や使令を戻すことも可能なのだろうか。物思いに沈みこみそうになる尚隆に、声をかける者がいた。
「──西王母に、拝謁したのかえ?」
「そうだ。神が、姿を現した」
「ほう……」
 声を上げた氾王は、扇子を弄びながら黙した。泰麒を抱き上げた尚隆は、景王陽子を促した。王宮の主に、泰麒の堂室を用意してもらわなければならないだろう。正直言って、泰麒が助かるとは思っていなかった尚隆は、敢えてその指示を出さずに蓬山へ向かったのだ。
「陽子、泰麒の堂室を用意してもらいたいのだが」
「はい。景麒、どこがよいと思う?」
「そうですね……」
 主に訊ねられた景麒も、しばし考える。無論、陽子にも景麒にも、あのときそこまで考える余裕はなかっただろう。そんな二人に氾王がさらりと提案した。
「淹久閣を使ってくりゃれ」
「──それではあまりにも……」
「もう、金波宮に居座る理由もない。帰国の準備はとっく済ませてあるゆえ、お気になさらずに」
 氾王は陽子に笑みを見せた。涙を拭った氾麟もにっこりと笑って同意した。泰麒捜索が終わり、借りた使令もそれぞれの主に返し、事の経過も宗王に伝えた、と氾王は続ける。景王陽子はしばし目を見開き、それから範国主従に深く頭を下げた。

 その後、景王帰還の報を聞いて参上した女御と女史に泰麒と李斎の世話を任せた。麒麟たちもそれに付き添って、次々と淹久閣に向かっていった。蘭雪堂には、三人の王だけが残された。
「氾王、ありがとうございました……」
「おや、景女王、いったいどうなさったのだえ?」
「──此度のこと、発起人である私は、呆れるくらいお役に立てませんでしたから」
 自嘲めいた口調で返答し、深く頭を下げる女王に、氾王は面白げな顔をする。そして、どこかの猿と違って礼儀正しいね、と言って笑った。余計なお世話だ、と返し、尚隆は顔を蹙める。そんな尚隆を横目で見つつ、氾王は扇子を広げて口許を隠す。

「そなたが動いたからこそ、泰麒は助かったのではないかえ?」

 氾王はそう言って陽子を見つめた。はっと顔を上げて氾王を見返す陽子の朱唇が、僅かにほころんだ。そして女王は再び深く頭を下げる。それから、仕事に戻ると言って退出していった。その背を見送り、氾王が問う。

「何が気入らないのだえ?」
「──何もかもに決まっておる」
「相も変わらず子供のようなことを言う」
 氾王はにやりと笑う。しかし、口を開きかけた尚隆を制して言を続けた。
「泰麒を、連れ戻るとは思わなかったぞえ」
「──上が決めたことだからな」
 麒麟の前では言えぬ一言に、尚隆は軽く肩を竦めた。氾王が視線で先を促す。尚隆は蓬山で目にしたことをかいつまんで語った。いつになく真面目な顔をして、氾王は応えを返す。
「──今はならぬ、か。では、これにて解散、ということじゃな」
「どうやらそのようだ」
「その顔、もう見ずに済むと思うと、ほっとする」
「それはこちらの科白だ」
 にやりと笑みを交わしつつ、二人の王はその場を後にした。

2007.11.02.
 大変お待たせいたしました。長編「黄昏」連載第41回をお届けいたしました。
 いやはや、とうとう原稿用紙450枚を超えてしまいました。 とりあえず、あと2回で終われば500枚を超えることはないと思います。思いたいです。
 今年もあと2ヶ月。なんとか「黄昏」を終わらせてすっきりと年を越したいです。 いつもの科白ですが、気長にお待ちくださいませ。

2007.11.02. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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