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真 意 (4)

* * *  4  * * *

 あれは、類稀な僥倖だった。そして、泡沫の夢だった。女王は利広の腕の中で、鮮やかな笑みを見せた。

 私は誰のものでもない、と──。

 誰のものにもならぬ女王が、自ら選んだ伴侶は、隣国の王。利広は見た。かの御仁に向けられた女王のひたむきな眼と、歳若き伴侶を優しい眼差しで見下ろす大国の王を。
 あのとき、利広は、前例のないふたりの王の結びつきを口外しない、と己に誓った。

 あれから何年もが経つ。今、利広の目の前には、雨に打たれる花のような儚い笑みを見せる女王がいる。己の言葉が引き出したその笑みに、利広は切なさを募らせる。

 このまま、抱きしめて、慰めたい、と。

「──私だったら、君にそんな想いをさせたりしないのに」
「利広……?」
 思わず漏れた本音に、女王は不思議そうに小首を傾げる。利広は敢えて想いと真逆なことを言った。
「送っていくよ。そろそろお付きの人たちが心配してるんじゃないかい?」
 女王は利広の言葉に反応できずにいる。利広は悪戯っぽく笑い、何事もなかったように続けた。
「まさか、他所の国を独りで歩いたりしていないよね?」
 女王は曖昧な笑みを浮かべ、立ち上がった。利広は屋台の勘定を済ませ、女王を促して歩き出す。女王は、安堵したように頷き、利広についてきた。

 心解いた女王は、改めて華やかな関弓の街に見入った。賑やかしい小店を、女王は珍しげに眺める。利広が軽く解説すると、女王は感嘆し、また楽しげに辺りに目をやった。
 雑多な人々が忙しなく行き交う広途。余所見をする女王は、雑踏によろめく。利広は素早く女王を支えた。
「──ありがとう」
 女王は利広を見上げ、笑みを浮かべてそう言った。どうしてこうも無防備なのだろう。男をそんなふうに信じるなと教えたはずなのに。
 煌く翠玉に瞳は懐かしげに利広を見つめる。その鮮烈な輝きは、邪なものを受け付けない。陽子は女王だ。光を宿す瞳が、身に纏う覇気が、それを雄弁に物語る。

 だからこそ、触れてみたくなる。手を伸ばせば届く、この距離にいる、愛しい女に──。

「君は相変わらず危なっかしいな」
「そんなこと……」
 ないよ、と口を尖らせる女王の手を、利広はそっと握る。頬を染めて目を見張る女王に、利広は笑みを湛えて返した。
「これでもう転ばないよ」
 羞じらう女王は、何も言わずに俯いた。利広は女王を見下ろして、くすりと笑った。
 久しぶりに触れる女王の手は、小さくて、滑らかだった。しかし、武断の女王の名に恥じず、剣を持つ者特有の硬いまめがある。利広がその手の感触を堪能していると、女王は不意に肩の力を抜いて溜息をついた。
 どうしたの、と訊ねる利広に、女王は不思議な笑みを見せ、ありがとう、と呟いた。利広は僅かに目を見張る。陽子が、以前にも意外なところで利広に礼を述べたことを思い出す。
「私は何もしていないよ」
 そう返しながら、利広は薄く笑う。そして、華奢な手を握る手に力を籠めた。

 そのまま来た途を戻る。楽しげに笑っていた女王の顔が、次第に曇っていく。

 まだ、帰りたくない。

 心惑わせている女王は、そんな呟きが聞こえそうな溜息をついた。

 そう、まだ、帰したくない。

 そう思いつつ、利広は歩く速度を落とし、串風路に曲がって足を止める。そして、苦笑して声をかけた。
「──陽子」
 女王は一度顔を上げ、すぐに目を逸らした。利広はもう一度女王の名を呼ぶ。しかし、女王は頑なに目を逸らし、顔を上げようとしなかった。
 利広は短く息をつく。おもむろに女王の頤に手を伸ばし、顔を上げさせた。そして、揺れる翠玉の瞳を覗きこみ、物柔らかに問うた。
「──君は、どうしたいの?」
「──」

 黙秘など、許さない。君は、この問いに答えなければならない。

 利広は瞳に強い想いを籠め、じっと女王の答えを待つ。しばし黙した女王は、やがて小さく、分からない、と呟いた。

「分からないから……まだ、帰りたくない……」

 消え入るような声で、女王はそう答えた。そして、子供のように戸惑って、再び俯いた。女王の口から思うとおりの答えを引き出し、利広は薄く笑う。さて、そろそろ仕上げだ。
 こんなに無防備な女王を、側近がひとりで歩かせるはずもない。恐らく、隠形した使令が憑いているに違いない。が、命に危険がない限り、使令が女王の行動を妨げることなどないだろう。利広はにっこりと笑んで女王に進言した。
「心配している人たちに、居場所を知らせたほうがいいんじゃないかな?」
 女王は利広の尤もらしいその一言に素直に頷いた。そして使令に命を下す。
「──お傍を離れるわけには」
「大丈夫だよ。利広もいるし、剣もある」
 女王は渋る使令に重ねて命じる。それを受けて、使令は大きな溜息をつきつつも気配を消した。思ったとおり、護衛は使令のみ。
 唯一の守り手を追い払い、利広は内心ほくそ笑む。肩を震わせる利広に、何も知らぬ女王は無邪気な顔を見せていた。
「──みんな、心配性なんだ」
 女王は少し眉根を寄せ、恥ずかしそうに言い訳をした。己の身に迫る危険をまるで理解していないことがそれで知れる。利広はにっこり笑んで本音を返した。
「その気持ちのほうが分かるなあ」
「それ、どういう意味?」
 見開かれた翠玉の瞳は清らかに澄んでいる。あれだけ性悪な男を伴侶に持つ女とはとても思えない。
「決まってるよ」
 ますます笑う利広に、女王は小首を傾げる。利広は片目を瞑って本当のことを指摘した。
「君は、それだけ危なっかしいってことだよ」
「それは酷いな」
「酷くないよ」
 そう返しながら、利広は邪気のない笑みを向ける。そして、いま隣にいる男が何をしようとしているか考えようともしない無邪気な女の手を引いて広途に戻った。
「元気が出たようだね」
「──利広のお蔭だよ」
 女王は利広に屈託ない笑みを返し、素直に感謝を告げる。利広は悪戯っぽく笑って続けた。
「そう思うなら、ご褒美をくれないかなあ」
 近道だと言って細い串風路に曲がりながら、利広はにっこりと笑った。褒美、と呟き、女王はまた小首を傾げた。

2008.09.10.
 「3周年記念」中編「真意」第4回をお届けいたしました。
 一昨年から断続的に拍手連載してきた「利広の真意」でございます。 うわっ、黒い! 書いていて楽しくもあり、辛くもある……。
 かなり邪度がアップしてまいりますが、最後までどうぞよろしくお願い申し上げます。

2008.09.12. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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