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真 意 (7)

* * *  7  * * *

 延王尚隆は関弓の繁華街を直走る。姿を晦ました伴侶の行方を追い求め、遁甲する隣国の女王の使令が導くままに。女王を手中に収めるために策を弄する性悪な太子の思う壺に嵌るわけにはいかない。
 尚隆の胸に、過ぎ去りし日のことが鮮やかに蘇る。お忍びで堯天に降りた女王を迎えに行ったあの日の出来事が、まるで昨日のことのように──。

 ずっと待っていた。

 そう呟き、尚隆の首に細い腕を絡めた伴侶は瞳を潤ませた。その、濡れた翠の宝玉から、女の匂いがした。じっと見つめ返す瞳に浮かぶ、いつもと違う色。それは、己が教えた憶えのない、誘惑の色だった。
 延王尚隆が自ら女にした歳若き伴侶。その勁さと脆さに心惹かれた。光も闇もともに糧とし、伸びやかに成長する様に魅せられた。
 景王陽子は自身を統べる王。あるがままに現実を受け入れる柔軟さを持ちながらも、己の意に染まぬものを容れることはない。故に、何も教える必要はない。そう思っていた。それなのに──。
 そのとき、尚隆はちらりと姿を見せて去っていった男を思い出した。忘れた頃に顔を合わせる、同類の風来坊を。
 尚隆は思わず苦笑した。何が起きたか気づいても、怒気も悋気も胸に浮かびはしなかった。成り行きは、容易に想像がつく。
 尚隆は腕の中に収めた伴侶の双眸を覗きこんだ。涙を湛えた翠玉の瞳は、尚隆を真っ直ぐ見つめ返し、輝かしさを損なうことなかった。
 気紛れな謀をした性悪な太子は、この輝かしさに呑まれぬために、女王を真面目に口説いたに違いない。そして、景王陽子は、己の勁い目を見つめ返した稀有な男を受け入れたのだ。故に、己に恥じることをしたつもりはないのだろう。

 ならば、事実を受け入れよう。

 そう思い、尚隆は己の胸でしか泣かぬ麗しき伴侶を抱きしめ、そっと頬を伝う涙を拭った。

「──延王」
 くぐもった声が低く促す。回想から現実に戻った尚隆は、姿を見せぬ班渠に軽く頷いた。
 細い串風路に、抱き合う男女がいる。覆い被さる男の影から覗く、見紛うことのない緋色の髪。尚隆は、目指す者を遂に見つけたのだった。

 それは、班渠の危惧通りの、そして尚隆の予想通りの状況だった。武断の女王とて、大国の太子相手に剣を抜けるはずもない。それをよいことに、太子は女王に男の力を行使しようとしている。尚隆は気配を殺して走り寄った。

(会った途端に殴られると思ってた)

 堯天で姿を隠した風来坊の太子は、その後の芝草での邂逅で、そう言って飄々と笑った。ほしいものを手に入れるためには手段を選ばぬ太子も、身に及ぶ危険は理解しているらしい。
 だから、尚隆も本心を率直に告げた。陽子が傷ついていたら、殴っていただろう、と。それは脅しではなく、掛け値なしの本音だった。
 あのときは、逃げられた。が、次にそんなことをしようものならば、決して逃がしはしない。尚隆はそう決めていた。

 華奢な身体を壁に押し付け、搦めとり、卓郎君利広は景王陽子を籠絡しようとしていた。陽子は目を見張り、それでも弱々しく抗っている。利広はその手を難なく押さえ、陽子を覗きこんだ。目を閉じろ──利広の背は雄弁にそう命じている。尚隆は威嚇を籠めて叫んだ。
「──陽子!」
 その怒気が漲る声に、二人の動きが止まる。串風路中に響き渡るその声を聞いた途端、陽子はびくりと身体を硬直させた。

 来たか、と胸で呟き、利広はおもむろに振り返る。予想に違わず、厳しい顔つきで駆けてくる雁の国主が迫っていた。利広は驚きもせずに、走り寄る女王の伴侶を挑戦的な目で見つめた。
 視線が合ったのは、ほんの一瞬のこと。が、その刹那、僅かに緩んだ利広の手から、捉えたはずの愛しい女がすり抜けた。

 もう少しだったのに。

 そう思いつつも、今の利広には、不思議なくらい落胆はなかった。恋しい女は、一国を統べる王。十重二十重に守られるべき存在なのだ。いくら護衛を追い払っても、そう簡単に手に入れられる女ではない。
 溜息をつきつつ傍を離れた女王の使令が、実直に、しかも迅速に伝令の役目を果たしたのだろう。
 それに、ここは雁の首都関弓なのだ。辣腕の国主が、いつまでも手を拱いているわけもない。利広は己の腕から逃れ出た華奢な背を見つめる。
 危ういところを切り抜けた無防備な女王が、己を迎えに来た伴侶に駆け寄ることはなかった。寧ろ、逆方向へと逃げていく。
 予想通りのその様に、利広は薄く笑う。そう、清廉な女王には、耐えられる状況ではないだろう。では、風漢は? 
 堯天で逃げおおせた利広を芝草で捕らえた風漢が、此度はどう出るか。あのとき、風漢は、獰猛な笑みを見せただけだった。それは、時が経っていたからかもしれない。では、今は?

 今度こそ、殴りかかってくるだろうか。

 そう思いつつも、覚悟を決めた利広は、そのまま走り来る風漢を待ち受けた。
 いつも飄々と笑う風漢が、男の顔をして駆けてくる。しかし──。
 険しい顔をした風漢は、利広の前を素通りした。走る速度を緩めることなく、少しも脇目を振ることなく。ただひたすらに、己の伴侶の背だけを見つめて、風漢は駆け去った。
 利広はしばし呆然と立ち竦む。そして、小さくなっていく二人の背を見つめ続けた。見えなくなるまで見送ってから、利広は自嘲の笑みを浮かべる。もう、笑うことしかできなかった。
「──まいったなあ」
 利広は脱力し、壁に背を預ける。片手で額を押さえた利広は、ひとり笑い続けた。

 千載一遇の機会は、泡沫の夢のように消えた。それでも、胸には変わらぬ鮮やかな笑みと深みを増した翠玉の瞳が浮かぶ。今回も、愛しい女は様々な貌を見せてくれた。女王の素の顔は、利広を惹きつけて已まない。

 きっと、いつかまためぐり会う日もあるだろう。

 そう気を取り直した利広は、広途に向けて歩き出す。
 さて、必死な形相で追いかけていった風漢は、伴侶を捕まえることができただろうか。いったい何と言い訳をする気だろう。元はといえば、あんなに美しく純真な伴侶がいながら、妓楼通いなどする風漢がいけないのだ。
 そう思うだけで、風漢は眉根を寄せて利広を睨めつける。あのねちっこい古狸が、利広をこのまま見逃すとは思えない。けれど、まだ何もしていないのに自ら引き上げるのは癪だった。
「せっかく関弓に来たんだから、楽しまないとね」
 そうひとりごち、利広は関弓の喧騒の中に消えた。

2008.10.25.
 大変お待たせいたしました。 やっと「3周年記念」中編「真意」第7回をお届けできました。
 今回は、思い入れが強いだけに、言葉が出てまいりません。ただ……。
 ざまみろ、というお声が聞こえそうな気がいたします。

2008.10.25. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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