誘 惑 (3)
* * * 3 * * *
「──陽子?」
突然名前を呼ばれ、陽子は思わず振り返る。隣国の王都である関弓で、誰かに声をかけられるなど、陽子にとっては青天の霹靂だった。雑踏の中から、もう一度明るい声が響いた。
「ああ、やっぱり陽子だ。久しぶりだね。私を、憶えてる?」
柔和な笑顔を浮かべる若い男が、親しげに近づいてくる、その男を認めて、陽子は驚きに目を見張った。
「利広!」
陽子はそのひとの名を呼んだ。忘れようもない、忘れるはずもない。かつて堯天で一度だけ会った、風来坊の旅人。陽子を景王と見抜いた慧眼の持ち主である。
(またいつか会おう、陽子。ちなみに、私はあの古狸よりも年上だよ)
誰何する陽子に、そんな謎かけを残して去った不思議なひと。その正体を調べることは、そう大変ではなかった。
身なりのよさからも、身分ある人だと察せられたが、そんなことより、伴侶よりも年が上、という事実が大きな手がかりとなった。五百年の治世を誇る延王尚隆よりも年上の者など、そう多くはいないのだから。
奏南国太子卓郎君利広。常世で最長命を誇る大国奏の太子は、相変わらず人懐こい笑顔を見せる。その笑みは、陽子の冷えた心を温めた。
「憶えていてくれたんだね」
利広は嬉しげにそう言う。昔と変わらない笑みを向ける旅人を、陽子はしみじみと眺めた。
「あなたは変わらないね」
「人はそう変わるものじゃないよ」
利広は爽やかに笑った。飄々と返されて、陽子は上目遣いに利広を見る。
「──人じゃないくせに」
「おや。私が誰か分かったのかい」
悪戯っぽい笑みを見せてそう問う利広に、陽子は笑顔をのみ返した。答えを言う必要もなかろう。利広は陽子に優しい笑みを向けて言った。
「ここで会ったのも何かの縁だよ、陽子。少し話さないか」
陽子は笑みを湛え頷いた。主上、と心配そうに呟く班渠の声が聞こえたような気がしたが、陽子は敢えてそれに気づかぬ振りをした。
旅人の利広は、関弓の街にも詳しい。美味しい屋台の店が近くにあるよ、と利広は屈託なく笑う。僅かに残る警戒心を解くその提案を受け入れて、陽子は歩き出す利広についていった。
「やあ、陽子が関弓にいるなんてね。私は自分の目を疑ったよ」
「うん。私もびっくりした」
賑やかな広途をのんびりと歩きながら、利広は楽しげに話す。陽子も同意した。こんなところで再会するなど、思いもしなかったから。
「──かの御仁に会いに来たの?」
さりげなく本題を問う利広から、陽子は目を逸らす。利広はくすりと笑い、それ以上何も訊かなかった。巧みに話題を転換し、利広は旅の話を語り出す。陽子は内心ほっとして利広の話に耳を傾けた。
屋台についてからも、利広は雁の名産を陽子にあれこれ勧めた。そして、利広の勧めるものは、どれも美味だった。
このひとは、ほんとうに変わらない。まだ二度しか会っていないというのに、どうしてこんなにも懐かしいのだろう。そして、このひとの隣は、こんなにも居心地がいい。陽子は先ほどまでの辛い想いを一時手放し、利広との会話を心から楽しんだ。
「──随分ゆっくりしているけど、戻らなくていいの?」
「うん……」
やがて、利広が心配そうに訊ねた。陽子は曖昧に返事をした。利広は少し肩を竦める。それから、おもむろに続けた。
「悩み事は、解消してから帰ったほうがいいんじゃないかい?」
何気ない一言に心が和む。それでも陽子は、大丈夫、と笑みを返した。そんな陽子を見て、利広はふわりと笑う。それから、小さく嘆息した。
「──君をそんなに悩ませるなんて、かの御仁も困った奴だね」
陽子は驚いた。このひとは、何を知っているのだろう。陽子の心の声が聞こえたかのように、利広はくすりと笑う。
「だって、君が出てきた串風路は、妓楼街じゃないか」
陽子は目を見張った。そんなところから見られていたのか。利広は片目を瞑って微笑した。
「前にも言ったと思うけど、君は、目立つんだよ。どこにいても、ね」
陽子は目を見開いたまま、何も言えずにいた。利広はふっと笑い、陽子の肩を叩く。そして低く囁いた。
「──私だったら、君にそんな想いをさせたりしないのに」
「利広……?」
「送っていくよ。そろそろお付きの人たちが心配してるんじゃないかい?」
まさか他所の国を独りで歩いたりしていないよね、と笑みを見せ、利広は陽子を優しく促す。まるで何事もなかったかのように。先ほどの呟きは、気のせいだったのだ。そう思い、陽子は立ち上がった。
当然のように勘定を済ませ、利広は歩き出す。慣れた足取りは陽子に安心感を与える。そして二人はまた他愛のない話をしながら活気に満ちた街を歩いた。
帰り道、陽子は珍しいものに目を引かれた。それに気を取られ、前から来た人にぶつかった。よろける陽子をすかさず利広が支える。陽子は利広を見上げて礼を述べた。
「──ありがとう」
「君は相変わらず危なっかしいな」
「そんなこと……」
ないよ、と言いかけた陽子の手を、利広はそっと握る。驚く陽子に、これでもう転ばないよ、と爽やかに笑う利広。陽子は頬を染めて俯くばかりだった。
物柔らかなのに、有無を言わさぬ行動。それを強引と思わせないところも、利広は以前とちっとも変わらない。そして、繋いだ手も、見下ろす笑顔も温かく、陽子を安らがせる。陽子はふとその理由に思い至った。
ああ、このひとは、陽子を女王と知りながら、普通に接してくれるのだ。臣のように見上げることもなく、歳若いと見下ろすこともなく。
利広といると、陽子は女王としての己を手放すことができる。ただの陽子として、肩の力を抜くことができるのだ。そう気づき、陽子は感嘆の溜息をついた。
不思議なひと──。
「どうしたの?」
「ありがとう、利広」
「私は何もしていないよ」
物思いに沈む陽子の顔を、利広が覗きこむ。陽子は笑みと礼を返した。少し目を見張った利広は、薄く笑って繋いだ手に力を籠めた。
2007.09.14.
お待たせいたしました。
「10万打御礼企画」中編「誘惑」連載第3回をお届けいたしました。
祭掲示板に甘いものを投下し続けたのは、
「誘惑」を書き綴っているからだと思われます。
少々難産しておりますが、引き続き気長にお待ちくださいませ。
2007.09.14. 速世未生 記