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誘 惑 (4)

* * *  4  * * *

 妓楼を飛び出してから、時が移ろっていた。利広とともに来た途を戻りつつ、陽子は考える。
 六太は心配しているだろう。もしかしたら、尚隆も。そう思いながらも、陽子の足取りはだんだん重くなっていく。
 妓楼で楽しげに過ごしていた尚隆が、目の前に浮かんで消えた。陽子の知らない、風漢を名乗る伴侶の姿が。風の漢──その名のとおり、奔放に振る舞うひとを捕まえようなど、所詮無理なのかもしれない。そう思うと自嘲の笑みが浮かぶ。
 大口を叩いて迎えに行ったというのに、陽子は逃げ出してしまった。どんな顔をして伴侶に会えばよいのだろう。心は千々に乱れる。

 ──気持ちの整理がつかない。まだ、帰りたくない。

 陽子は下を向き、小さく溜息をつく。陽子の手を取って歩く利広は速度を落とし、不意に角を曲がって人通りの多い広途を離れた。串風路に入って足を止め、苦笑気味に陽子を見下ろす。
「──陽子」
 名を呼ばれ、陽子ははっと利広を見上げる。そして、目が合った途端、視線を逸らした。利広の柔和な目に、心の奥まで見透かされてしまいそうで。
「陽子」
 利広がもう一度陽子の名を呼ぶ。陽子は俯いたまま返事もできずにいた。ふ、と短く息をつくと、利広はおもむろに陽子の頤を掬い上げた。

「──君は、どうしたいの?」

「──」
 訊ねる声はあくまで物柔らかで、覗きこむ瞳も優しい光を浮かべている。しかし、利広は陽子に答えを求めていた。その強い意思は、陽子に目を逸らすことを許さない。陽子は改めて己の気持ちを確かめなければならなかった。
「──分からない」
「──陽子」

「分からないから……まだ、帰りたくない……」

 まるで、子供のような我儘を言っている。陽子は恥ずかしさに再び俯いた。利広はくすりと笑い、陽子の頭を撫でた。
「──分かった。それなら、もう少しお付き合いさせてもらうよ」
 でも、と利広は悪戯っぽい笑みを見せた。陽子は顔を上げて利広の次の言葉を待つ。
「心配している人たちに、居場所を知らせたほうがいいんじゃないかな?」
「──そうだね」
 利広の言葉に頷いて、陽子は足許に声をかけた。六太の使令に連絡を取るよう命じると、班渠は少し渋る様子を見せた。
「──お傍を離れるわけには」
「大丈夫だよ。利広もいるし、剣もある」
 重ねて命じる陽子に、班渠は深く嘆息する。それでも、畏まりまして、と応えを返し、班渠は気配を消した。可笑しそうに肩を震わせる利広に、陽子は言い訳をする。
「──みんな、心配性なんだ」
「その気持ちのほうが分かるなあ」
「それ、どういう意味?」
 決まってるよ、と利広はますます笑う。陽子は首を傾げた。利広は片目を瞑って断じる。
「君は、それだけ危なっかしいってことだよ」
「それは酷いな」
 酷くないよ、と返しながら、利広は楽しげに笑う。それから、陽子の手を引いて広途に戻った。心軽くなった陽子は、足取りも軽く、利広との他愛ない会話を楽しんだ。やがて、利広が柔らかな笑みを見せて言った。
「元気が出たようだね」
「──利広のお蔭だよ」
 陽子は利広に笑みを返し、素直に感謝を告げる。利広は悪戯っぽく笑って続けた。

「そう思うなら、ご褒美をくれないかなあ」

 近道だと言って細い串風路に曲がりながら、利広は屈託なく笑う。褒美とは何だろう。そう思い、陽子は軽く首を傾げた。
 不意に繋いだ手を引き寄せられ、陽子は小さく声を上げた。倒れこんだ陽子を抱きとめて、利広はくすりと笑う。見る間に唇が近づいてきた。
 軽く触れて離れた唇が、楽しげな笑みを浮かべている。陽子は己の身に何が起こったのか、全く分かっていなかった。

「憶えておおき、陽子」

 利広は妖しく瞳を輝かせ、子供に言い聞かせるように囁く。いつも爽やかな利広のその変貌に、壁際に追いつめられた陽子は目を見張った。

「見ているだけで満足する男など、いはしない。見つめていたい、口づけしたい、素肌に触れたい、ひとつになりたい──もっと狂わせたい、もっともっと……。男の欲望は、限りない」

 ゆっくりと語りかけながら、利広は陽子の逃げ道を塞いでいく。そして、笑みを湛えたまま、再び顔を近づけてきた。陽子は目を見開き、硬直した。
 耳許をくすぐる熱い吐息。身体を搦めとる腕。 陽子は目眩がし、力が抜けていくのを止められなかった。そして、利広はそれを待っていた。
「──でも、君はもう、よく知っているかな、そんなこと」
 くつくつと笑い、利広は陽子の耳朶に口づける。意味深長なその言葉を、陽子は反芻する余裕もなかった。
「──君が悪いんじゃないよ、陽子。私は、君が私に手をくだせない、と知っている」
「嫌だ、止めて──利広、離して」
「こんな機会を、私が逃したりすると思うかい」
 陽子は必死に抗った。が、その弱々しい抵抗を、利広は難なく封じこめる。そのまま抱きすくめられ、唇を塞がれた。その熱く深い口づけ──。
 唇を離し、利広は陽子の瞳を覗きこむ。それは、いつか見た、欲望の炎を燃やす眼。視線を逸らせない陽子に、利広は微笑を向ける。

「──君は、変わらないね。危ない、と、前も警告したのに」

 堕ちてこい、と誘う手を、拒みきれない。目を閉じたらお終いだ。陽子には分かっていた。その誘惑に、屈するわけにはいかない。それでも、堕ちてしまいたい、と願う己がいる。陽子は唇を噛みしめた。
「そんなことしたら、血が出てしまうよ」
 そう告げる唇が、再び近づいてくる。有無を言わせず抱きしめながら、甘く労わりの言葉を吐く唇が。陽子から、抗う力を吸い尽くしながら。

 そのとき。

「──陽子!」

 あまりにも聞き慣れた声がして、陽子は身を硬くした。凄まじい怒気を孕む声に、利広も振り返る。陽子を抱く腕の力が、僅かに緩んだ。陽子はその隙を逃さなかった。
 利広の腕から抜け出したとき、厳しい顔をした尚隆が走ってくるのが見えた。陽子は目を見開く。

 何故、あなたがここに──。

 そう思ったときには、陽子はもう後ろも見ずに走り出していた。

2007.09.20.
 お待たせいたしました。 「10万打御礼企画」中編「誘惑」連載第4回をお届けいたしました。
 ご、ごめんなさい! コメント不能でございます……(恥)。

2007.09.20.  速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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