4月2(由旬さま)
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4      月  (2)

作 ・ 由旬さま

――せめて紅だけでもつければ?――
 男と出かける陽子が、飾り気のない服装をしていることに唖然とした祥瓊と鈴。溜まりかねた鈴が口紅を差し出した。
 一瞬陽子は迷ったが、それも突き返してしまった。
 祥瓊と鈴は厳しい顔つきをしていたが、どちらからともなく、くすくす笑い出した。
「しようがないわね」という諦めの言葉が、二人同時に発せられたので、それで陽子も可笑しくなって、最後は三人で声を上げて笑った。
 誰とどこへ行くのか、二人は敢えて聞かなかった。だが、
「今夜は帰ってくるの?」
 と、祥瓊は不意打ちの質問をして、陽子をからかうことを忘れなかった。
「か、帰ってくるに決まっているじゃないか」
 狼狽える陽子を見て、二人はまた笑ったのだった。

 それを思い出して、陽子は再び顔が火照る。
 帰るに決まっている。ちょっと桜を見て来るだけだから。
 心の中で声高に言ってから、再び自分の口唇に指を当てた。
 気を抜くと、どうしても蘇る場面がある。
 先日、王宮の桃の花が咲く庭で、陽子に口唇を寄せようとしていた浩瀚。そして、目を伏せてそれを待ち構えていた陽子。
 羞恥心ではちきれそうになるので、できるだけ思い出さないようにしているのだが、今宵はそれが頭について回る。
 あの時はいろいろあって叶わなかったが、今度こそ浩瀚は――
 そのために、こうやって誘ったのではないか――
 そしてその誘いを受けた自分。どこかでそれを期待していたからではないか。
 そこに思い当たって陽子は慌てた。
 余計なことを考えては駄目だと、道の敷石が傷んでいないかどうか、大きなゴミは落ちていないか、などと注意を反らしながら歩いた。
 そういえば、と陽子は思う。足元の陽子の影に、いつもいるはずの使令の気配が感じられない。
 ふと、禁門まで見送りに来た景麒の姿を思い浮かべる。

 陽子が騶虞を牽いて禁門にやってくると、景麒が待ち構えていた。これからデートに行こうとするのを、親がひと言釘を刺しにやってきたような気がして、陽子は随分居心地が悪かった。
「使令はおつけしても宜しいでしょうか」
 開口一番、そう言った景麒。いきなりの発言に、陽子は答えに窮した。
「いつものことだろう。わざわざそれを言いに来たのか?」
 やっとのことでそう返した。
 黙っていてもいずれわかってしまうなら、最初から話しておいた方が良いと、浩瀚は景麒に予め今夜のことを伝えていた。そこでどういうやりとりがあったかはわからないが、こうやって見送りに来て、
「今回は主上にとって特別なお出かけだとお伺いしております」
 と言う景麒を見る限り、穏便に話はついたのであろう。
「だからって、使令をつける云々という話じゃないだろう。それに――」
 陽子は景麒の視線を避けて言った。
「特別っていうわけでもない。ただ出かけるのが一人でなく二人でというだけだ」
 照れ臭さを隠そうと強がって言う陽子を、景麒はどこか優しそうな目で見ていた。
「完全にお二人だけにして差しあげたいのはやまやまですが、王宮の外に行かれる限り何が起こるかわかりませんので、使令をつける野暮をお許し下さい」
 景麒の言葉を聞いて、陽子は顔を真っ赤にした。
「そ、そんな変な気を回さなくても良いから!」
 陽子はばつが悪くなって、急いで騶虞の背に乗りそのまま飛び立った。
 二人は互いに挨拶を交わすこともなく、無言でその場を別れたのであった。

 陽子は景麒の想いを痛いほど感じていた。
 彼は彼なりに見守ってくれているのだ。
 景麒は何も言わないが、陽子が浩瀚に想いを寄せていたことは以前から気付いていて、それが叶うよう願ってくれていたのを陽子は知っている。その件で景麒が心配してくれていたのもわかっている。景麒こそ二人の一番の理解者かもしれなかった。
 そんな景麒の気遣いは、今夜の使令の配置にも顕れている。
 どんな時も景麒は陽子に使令をつける。今夜も使令をつけると言いつつも、今その使令の気配をすぐそばに感じられない。使令は離れた場所で待機しているのだと思われた。
 陽子が王であることを意識しなくても良いように、との配慮なのだろう。
 そこまで気を回さなくてもと、陽子は気恥ずかしかった。
 その一方で、こうやって自分を気遣ってくれる景麒を大切に思った。
 禁門で主を見送っていた景麒は、困惑しながらもどこか安堵したような表情をしていた。
 それを思い出し、陽子はありがとうと心の中で呟いた。

「夕飯がまだですね」
 浩瀚が足を止める。
「あ、ああ」
 まだ緊張の解れない陽子は、声をかけられてびくりとした。
「“陽子さん”は、どんなものを食べたいですか?」
 陽子は聞き間違えかと思った。
「?よ、陽子さん?!」
 勢いよく浩瀚に向き直った。浩瀚はうっすらと微笑んでいた。
「さすがに街中では、主上とは呼べないでしょう。ここでは我々は普通の民ですから」
「そ、そうだけど」
 初めて名前で呼ばれたのだ。陽子はこそばゆくて、ますます身体が固くなった。
「それとも、きちんとお断りしてからそうお呼びすればよろしかったですか?」
 そう言って浩瀚は、その手を陽子に伸ばし、その指先で紅い髪をつまんだ。あっと固唾を呑む陽子に、浩瀚は苦笑する。
「もう少し気を楽になさったらいかがですか。そんなに緊張なさることもないかと思います。街へ降りるといつもこのようにしおらしいのですか?」
「ち、違う」
 陽子は浩瀚の手を振り払って、背を向ける。
「浩瀚と一緒だと何だか調子が狂うのだ」
「それは心外です。わたくしのせいで緊張なさってせっかくの行楽を満喫できないのなら、お誘いしたことを後悔してしまいます」
「だ、だって。何となく、おまえはいつもと違っているから――」
 陽子の言葉をすかさず浩瀚が遮る。
「いつもと違ってとおっしゃいますが、これがわたくしの普通の姿でございます」
 陽子は浩瀚を振り返った。
「王宮を離れれば、わたくしは普通の男になります。貴女も普通の娘でいらっしゃるのではないのですか」
 そう言って浩瀚に見つめられると、陽子は力が抜けそうになる。
「そう、だけど……わ、わかったよ。わかった。わかったから……取り敢えず……良いよ、陽子さんと呼んでくれて。なんなら陽子、でも良いし」
 すると浩瀚は、陽子の方に身を屈め、そっと告げる。
「陽子と呼ぶのは、もう少し親密になってからにいたします」
「こ、浩瀚!」
 思わず陽子は浩瀚を手で押しやる。
「何てこと言うんだ、お前は」
 浩瀚は声を上げて笑った。
「からかっているな」
 陽子は浩瀚を睨み付ける。
「ええ、まあ。からかい甲斐がありますね」
「よくもしらっと」
「さすがに王宮ではこのようにからかったりしていると、不敬罪だと怒られてしまいそうですが、ひとたび王宮を離れれば、そうはいきませんからね」
 念を押すように言う浩瀚を、陽子ははたと見つめた。
「ここでは、貴女は王でなく、女の民。わたくしも冢宰ではなく、男の民。男の民が女の民を扱うように、貴女を扱わせていただきます」
 その浩瀚の口調が、不意に艶めかしいものに変わったような気がして、陽子はその言葉の意味を咀嚼してみる。
 すると、どうしてもあの桃の庭での出来事に思い当たってしまうのだった。そういう意味で浩瀚は言ったのではないと頭の中で否定しながらも、陽子の頬はみるみる赤く染まっていく。
 それを隠すため、陽子はまた浩瀚に背を向けなければならなかった。


背景素材「月楼迷宮〜泡沫の螢華〜」さま
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