4月3(由旬さま)
4 月 (3)
作 ・ 由旬さま
「さて、どうしましょうか」
陽子の後ろから浩瀚が声をかけ、
「この先に美味しい麺を出す店があるそうですが、そこで夕飯を食べますか」
と、その店の名前を告げる。その名を聞いて陽子はどきりとした。
そこは陽子が最近よく行く店だった。店には見知った顔ばかり。
「い、いや。そこじゃない所が良い」
慌てて答える陽子だった。
いつも一人で食事に行く。それを男と二人で行けばどうなるか。元々色恋沙汰とは縁遠い身だと思われている。これ見よがしにあれこれ追求され、ここぞとばかり冷やかされるに違いない。そんなことをされたら、恥ずかしいことこの上ない。今度からその店に行けなくなりそうだった。
なるべく知らない店の方が安心だ。今夜は誰にも会いたくない。
堯天には他にも陽子の知り合いがいる。今更ながら、ここに来るまでに誰かに目撃されていなかっただろうかと不安になり、落ち着かなくなった。
浩瀚の影に隠れるようにして、辺りをきょろきょろと窺いながら歩く。
誰かに会わないか。会ってしまったらどうしよう。
「あれ!?」
そう思ったところでいきなり二人の背後から声がかかったので、陽子は飛び上がる程驚いた。
恐る恐る振り返ると、そこには小柄な年輩の男が立っていた。その男は浩瀚の方に向かって軽く会釈をする。
「旦那、お久しぶりで」
「おや、これはこれは。変わらず元気そうじゃないか」
浩瀚の知り合いだったのだ。男はちらりと陽子を見ると、にやにやしながら言った。
「可愛いお嬢さんじゃないですか。旦那が二人連れなんて初めてですね。これからどちらへ?何だったらうちの舎館にお寄り下さいよ。良い部屋ご用意できますぜ、へへ」
陽子は思わず顔を赤らめる。その横で浩瀚が一つ咳払いをした。
「あいにく今夜は夜桜見物に行くのでね。また今度食事にでも寄らせて貰うよ」
そう言う浩瀚を男が肘でつつく。
「良かったですねぇ。旦那もずっと一人身だったから。うまくやって下さいよ」
男は笑って陽子に向いて会釈した。
「夜桜は今が見頃ですよ。楽しんで来て下さい、お嬢さん」
そして、浩瀚にも挨拶するとそそくさと行ってしまった。
「お前の知り合いだったとはな」
男の去った後を見ながら陽子が言った。自分の知り合いではなかったので、少しほっとしていた。
「街はずれの舎館の親爺です」
「へぇ」
顔見知りということは、何度かそこへ行ったことがある訳である。そこで何をするかと言えば、食事をするか宿泊するかのどちらかだ。
陽子はふっと、浩瀚はそこへ誰かと行ったことがあるのだろうかと考えた。
舎館の親爺は「二人連れは初めてだ」と言っていたが、本当だろうか。
陽子の頭の隅に、以前女官が言っていた噂が蘇る。
「冢宰殿には冬官府に好いたお方が……」
そう思い出し、首を振る。
あの噂は単なる噂だった。祥瓊にぽろりと漏らしたら、彼女は密かに調べたようで、浩瀚の同期だった女官吏が冬官府にいて、会えば話をするだけの仲だと教えてくれた。
だが、浩瀚に好きな女がいたとしてもおかしくはない。女と一緒に出かけることもあっただろう。浩瀚は自分よりずっと大人なのだ。
そんなことを考えている自分を、陽子は嘲った。
「下世話な物言いに、気を悪くしましたか?」
浩瀚が声をかける。
「いや」
陽子は苦笑した。
「お前もお忍びで街に来ているのだなと思って」
「貴女ほどではありませんが」
すかさず返す浩瀚に、陽子は肩を竦めた。
二人はまた歩き始めた。
「早く夕飯を食べないと、夜桜見物の時間が終わってしまいます。旧午門の近くに知った店があるのですが、そこでも良いですか?」
その辺りの店には行ったことがないので、知り合いに会うこともないだろう。
陽子が頷くや否や、
「では、ついてきて下さい」
と言うと、浩瀚は陽子の手を取って足早に雑踏の中へ掻き分けていった。
浩瀚は陽子の歩みに合わせつつ、少々急いで人混みをすり抜けて行く。繋いだ手と手が伸びきると、他の人にぶつかってしまうので、陽子は自分の腕を浩瀚の腕に巻き付けるようにして、なるべく離れないようについて行った。
握りしめられた手が熱い。
知り合いに出会わないかと周りに目をやる暇もなく、陽子の意識はただこの男の背に集中していた。
ようやく広場から抜け出して、府城へ続く東門まで出ると、そこから旧午門の方角に向かって、大通りから一本入った道を下り始めた。雑踏は減り随分歩きやすくなり、陽子は浩瀚にぴたりと寄り添って歩く必要がなくなった。
だが浩瀚はその手を離さなかった。ずっと以前からそうしていたように、ごく自然に陽子の手を握りしめたまま、こっちだと案内する。
幼い頃はともかく、こんな過保護にされて歩いたことがなかった陽子は、大丈夫だと言って手を離そうかとも思ったが、既にその手の温もりが自分の手に馴染んでしまっていたので、黙って握られたままにしていた。
広場と違って通りに明かりは少なかった。それでも、道の両脇に立つ建物群から漏れる光で充分歩けた。
これだけの明るさなので、道行く人の姿もまたよく見えるようだ。
前方から歩いてくる人物が、こちらへ向かって声を発した。
「あら〜〜!」
現れたのは、大柄の中年の女だった。これもまた陽子の知らない顔だった。
「旦那様、まぁこんな所でお会いできるなんて」
ひどく嬉しそうに浩瀚を見ている。そして側の陽子にも笑顔を向け、一瞬握られた手に視線を送った。
「やあ、これはどうも」
そう言いながらも浩瀚は、恥じる風でもなく陽子の手を握りしめたままだった。それで陽子の方が恥ずかしくなり、何となく浩瀚の袖の裏に下がったのだった。
「まぁまぁ、お声をかけるのは不躾だったわね。お嬢さん、ごめんなさいね」
「い、いえ。とんでもない」
消え入るように答える陽子に、女は優しく微笑んだ。
「この旦那様はそりゃ素敵なお方ですよ。今夜は楽しんでいらっしゃいね。ではまた旦那様」
そう言い残して、女は反対の方角へ消えていった。
「今のは?」
陽子が訊ねると、
「囲碁仲間の女房です」
と、浩瀚が答えた。
その女房と顔見知りになるほど、どこかで頻繁に対局しているのだろうか。
一体いつの間に、と陽子が思ったところで、今度は通りの反対側から口笛を吹かれた。
見ると、十七、八くらいの少年達が数人、路地の角でたむろして、盛んに手を振っていた。そうして口々に冷やかしの言葉を浴びせかける。
「兄さん、今日はどうしたんだい」
「珍しい〜女連れかよ〜」
「ねえちゃん、可愛いじゃねえか」
「手ぇなんて握っちゃってよ」
「これから何処に行くんだい?」
弾けるように笑う。
「彼らも知り合い?」
陽子がそっと訊ねる。
「ええそうです」
言って浩瀚は、
「野暮なことを聞くなよ」
と、彼らに向かって声をかける。それで少年達はいっそう囃し立てた。
「兄さんにも春が来て良かったな」
「せいぜい励めよ」
そんな彼らに浩瀚は笑って片手を挙げた。
その場を通り過ぎても、しばらくは二人の背後から賑やかな声が聞こえていた。やっと静かになったところで陽子が聞いた。
「どういう知り合い?」
「以前彼らのうち一人を訳あって助けたことがあって」
「ふぅん」
結局小さな食堂に辿り着くまで、更に三人ほど浩瀚の知り合いに出会ったのであった。
勿論この食堂の主人も浩瀚をよく知っていて、顔を見ただけで「いつもので?」と声をかけた。浩瀚が頷くとそそくさと奥へ下がって行った。
ようやく食卓について一息ついた陽子は、向かいの椅子に座った男に言う。
「何だかな、お前、私より街を出歩いていないか?」
「滅相もない」
涼しい顔をして答える男が、何となく憎らしかった。
背景素材「月楼迷宮〜泡沫の螢華〜」さま