同業者の誼と、愛しさと
黎絃さま
* * * 中 * * *
2011/03/30(Wed) 17:08 No.195
「そろそろ戻りましょうか」
陽子は驍宗の落ち着いた声で我に返る。どことなく驍宗の表情は寂しげに見えた。
自分が無口すぎたかなと陽子は悔いたが、実際は驍宗も似たり寄ったりのことを考えていた。
景女王にちょっかいを出した暁には一粒の麦も売らない、と言って憚らぬ延王の顔を思い出したのだ。
初めて会った時から、驍宗も恩人である景王は好感のもてる女性だと思った。
だが、それよりは食糧を盾に延王から脅迫されたことの方が驍宗にとっては屈辱だった。
とはいえ哀れなほど現実的でもある驍宗は、延王を怒らせて良い理由など見いだせない。
わざわざ関わらなければ良いだけのこと。
そう決め込んで十数年は景女王のことなど考えもしなかった。
なのに今はどうだ。みずから催した園遊会で再会したとたん、
驍宗は自分が何十年も前から景女王に恋焦がれていたように思えた。
陽子はこの会合で羽を伸ばすために、そのぶん金波宮では根をつめてしまう。
驍宗も似たような日々を送ったからか、緑色の双眸の下にできた隈さえも愛おしくてたまらない。
延王は彼の想いを知っていながら、あえて彼に陽子と二人きりの時間を与えた。
驍宗が国の利益を捨ててまで陽子を口説くことはない、と高をくぐっているのだろう。
じっさい延王の読みは九割がた正しい。だが、あまり長く二人きりでいては自分の理性も危うい。
思わず陽子の頬をなでそうになる。脳裏には生殺し、の語が浮かぶ。
驍宗は行き場を失った右手のために、わざとらしく咳ばらいをした。
「ところで景王は、この世界に桜を広めたのが延王と延台輔であるのを御存じか」
「そう聞いてはいますが、なぜか当人たちは詳しく話してくれませんね。雁史では言及すらしていませんし」
「そうでしょう、ことの詳細は我が国の史書にしか載っていない」
「雁の史書にも記されていないのに、ですか?」
「ええ。面白いことに、この世界で最初に植えられた桜は延王が路木に祈って授かったわけじゃないのです」
「ということは、延台輔がほうらいから持ってきたのか」
「さよう。興味深いことに延王は登極して百年以上、故郷の文物を取り入れていない。こちらに馴染むだけで精一杯だったのかもしれないし、あえて郷愁を呼び起こすきっかけは避けたかったのかもしれないが」
「そうですね」
「当時わが国には、延王とほぼ同時期に登極した同年輩の王がいました。結局一度も顔を合わせることはなかったが、二人の間で頻繁に文が交わされたのは確かです」
「約五百年前に即位された泰王と仰ると……麗王ですか」
遠甫から掻い摘んで教わった「世界史」の知識をたよりに、陽子が聞いた。
驍宗は陽子が自国の歴史を知っているのに機嫌を良くし、白い歯を見せて笑う。
「まさしく。ところが麗王には厄介な父君がおられた。王は収賄を繰り返す老父を紫冥山に幽閉しました。それでも問題が絶えないので、結局は仙籍を剥奪してしまったのです。やがて王の父はなくなり、麗王は亡き父が建てた豪奢な屋敷をも取り崩してしまった。……よくある話です、あまり悲しまれるな」
「すみません、つい。もしかして、取り崩された邸は紫色だったのでしょうか」
「恐らくそうだったのでしょう。ただし、それまでの洞府の様子は史書にも詳しく書かれていないので分からない。まともに記されているのはそれ以降だ」
「はぁ」
「登極して百数十年を迎えたころ、初めて延王は梅と桜を欲しいと郊祀のさい祈った。しかし桜の種を授かることは出来なかった。路木は王が見知っている動植物なら卵果に宿してくれるが、桜に関する延王の記憶は余りにおぼろげだったのです」
驍宗は絶句する陽子を余所に、説明を続けた。
「麗王の残した日誌をみると、当時は流石の延王も複雑な気持ちだったと思われる。しばらくのあいだ延王が麗王におくった鸞は毎回、酒気を帯びた声で『梅も桜も思い出せない』と呟いたとのこと」
「気の毒な話ですね」
「まったくです。ここまで感傷的な延王の言葉を聞くのは麗王も初めてだったので、かなり焦りました。王の日誌には最も交易盛んな国の王が倒れるのを危惧する気持ちが綴られています。その文面は些か打算的すぎるので延王には見せられたものじゃないし、結果としては麗王の方が先にたおれた訳だが……それは置いといて。麗王は自分の宰輔に命じ、延台輔がお忍びで戴を訪れた際、彼を白圭宮に招きました」
「そして、ほうらいから桜を取り寄せるように勧めたのですね」
「正解です。その際は我が国の宰輔も協力し、なるべく多彩な種類の苗木を持ちこみました。そして、この紫冥山に植えはじめた」
「なぜ玄英宮ではないのですか」
「ほうらいや崑崙から直接持ち込んだ植物は、こちらの風土に合わないこともあるのです。当の植物が枯れるだけならまだしも、こちらの土地を荒れさせることもある。そのようなことが王宮で起きたら延王の威厳にさわるでしょう」
「麗王は――きわめて思慮深い方だったのですね」
「たしかに。それに新しく屋敷を建てる際、麗王はほうらいの建物を参考にしようと心を砕きました。結局は崑崙の建築と折衷することになったが。ともあれ桜の木々は、こちらの風土にもよく合う植物だった。ところが鸞を介して聞く延王の声は直ぐに明朗さを取り戻したので、麗王は桜の披露を保留しました」
「では何時になって、延王は麗王の桜を見たのですか」
「麗王が没した後です。そして延王が自国の里木を通して桜を広めたのは、今から三百年程前のことだ。おかげで今では、どの国でも桜を愛でることが出来る」
「延王と麗王は、一度も会ってないと言いましたよね?」
「さよう。しかし麗王の最期を此処で話すのは控えましょう、愉快な話ではないゆえ。ただ一つだけ付け足すと、こうして私が延王を紫冥山に招待するのは純然たる好意ではない」
「は?」
「紫冥山は延王にとって、必ずしも楽しいばかりの場所ではない。最初から意図したわけではないが、今となっては意趣返しのつもりでいます」
「待ってください。意趣返しって」
「さて、ここで道が分かれます。左は『おかめざくら』が、右は『そめいよしの』が多い。景王はどちらをお好みか」
「……では左で」
――そめいよしのは、あちらで余りにも慣れ親しんだ桜だから。
「……了解」
驍宗は陽子が延王の予想――正確には六太の予想だが――通りの選択をしたので苦笑したが、すぐに自称・普段通りの表情をとりもどした。臥信に言わせれば、このように優しげな驍宗は「お世辞にも普段の驍宗様じゃない」のだけれど。