桜 装
Baelさま
* * * 壱 * * *
2011/04/08(Fri) 23:54 No.300
整った男の指が、すいと視界を過ぎる。次いで、掠めるような感触が陽子の紅い髪に触れた。
「ご無礼を」
常と変わらぬ落ち着いて穏やかな声が響いて、目の前の書類に集中していた陽子は、はたと我に返った。
時刻はもう夕を大きく過ぎて、夜更け近く。王城を抜け出して過ごした一時の和みの代償に陽子の前に積み上げられた仕事は多く、まさに忙殺たる単語に相応しい有り様で職務に励行する羽目に陥った。
だが、如何に多かろうと、有限ならばいつか終わりが来る。
無論、未だ発展途上な慶の国主の仕事が尽きないのは事実だが、全てを一日にこなすことは出来ない。
或いは、有能なる何処かの冢宰の采配が仕事量を調整しているかもしれないが、陽子はそこに拘らない。
王などというものは、所詮、全ての束ねとしての最終責任を負うためにいるのだ。官吏が腐敗していないならば彼等が動きやすい範囲で任せて構わない、と。さすがに学びつつあった。
「ああ、浩瀚」
陽子は横滑りかけた思考を立て直して、自分に手を伸べた男の名を呼んだ。
「すまない。来たのに気づいていなかった。何か急ぎがあったか?」
呼んだのに気づかなかったのだろうかと問えば、浩瀚は薄く笑みを浮かべ、否と答えた。
「御髪に何か付けていらっしゃるので、つい。失礼を致しました」
言って、先程、目の端を過ぎった長い指を翻す。
「花簪には些かささやかですね」
かざされた薄紅の花弁に、陽子は、あ、と呟いた。
昼間見上げた満開の花。その名残。
それを見て、忙しさに取り紛れてすっかり忘れていた案件を思い出した陽子は、丁度良く目の前に現れてくれた浩瀚を見上げた。
もう片付けるべき仕事は手元の一つだけ。現れた冢宰も新たな仕事を持ち込んでいないとなれば、少し仕事から離れた話をしても問題はないだろう。
「なあ、浩瀚。一つ教えてほしいことがあるんだが。……いや、書類のことじゃなく」
と、読み書きからして不自由な王の補佐する彼が、分からぬ箇所があったかと尋ねるのを制し、私的なことだと断る。
「ええと、何だったかな。──春三月、瑛州の学生に降る雨の色を知るや。だったか」
確か、間違ってはいないよな。と、柴望に聞いた内容を思い返しながら、陽子は浩瀚を見上げた。
怜悧な面立ちの冢宰は、己の王の言葉を吟味するように一度瞬いて、ふ、と笑んだ。
「馬鹿桜の色」
「は?」
「成程。昼間の主上は、大学寮までお散歩にお出掛けでしたか」
──あまり台輔にご心配をお掛けなさいませんように。と注意され、「使令は付いてきていたから」と反射的に返した陽子は、だから違う、と大きく頭を振った。
「浩瀚。今、何と?」
「主上のご下問にお答え致しましたが」
「うん。だけど、そうじゃなく」
「馬鹿桜の色、と申しましたね」
陽子が混乱しているのを無視し、浩瀚はさらりと繰り返した。陽子は自分を落ち着けるように、まず一回深呼吸する。
「浩瀚が馬鹿とか言うのを聞くと……何だか違和感があるな」
「おや。左様にございますか?」
「うん」
涼やかな顔と声で言われると、ショックが大きそうだ。少なくとも自分に言われるのは想像したくもない。そう考えれば、言われた桜も哀れだ。などと思いながら、浩瀚と呼んだ。
「何で桜が馬鹿なんだ?」
「学生の他愛もない軽口です。時節を誤り急くは愚かと馬鹿桜。古くは桜ばかりでなく、若くして学生となって官吏を目指すに急く者を揶揄する言葉でもありました。いつの間にか、大学寮の桜の呼び名となってしまいましたね」
「柴望は、そんなことは言っていなかったが……」
「おや。行き合いましたか」
「ああ。人使いの荒い誰かに、友人に会うついでの視察を押しつけられてたな」
その誰かにちらっと視線を流せば、にこりと綺麗な笑顔に迎え撃たれ、陽子は思わず目を瞬いた。
「主上? 和州の候たる者と冢宰は同格。命ずるはおろか、押しつけるなどと、とんでもない。出来るのは主上と慶を思う心を頼みに願うことのみ。州候に命ずるは、ただ王一人の権利にございましょう」
「いや分かった、口が滑ったというか言葉を選び間違った!」
──そもそも、と続こうとした台詞を、陽子は諸手を挙げて遮る。
確かに、そもそもを言うならば、未だ年若で経験が浅く官吏に侮られがちな女王を君臣の権を明確にすることによって立て、威厳を保つために尽力してくれているのが、目の前の冢宰なのだ。如何に柴望を初めとした元麦州出身の者達が浩瀚を中心に纏まっているからといえ、今の命令系統を無視しては、浩瀚のこれまでの努力が報われない。
そこまで含んで、「すまなかった」と言えば、浩瀚は、いいえと僅かに苦笑した。
「……和州候は、万事に誠実な為人。桜が桜なりに己の花を咲かすのを馬鹿と囃すは哀れと思って、主上にはその名をお伝えしなかったのでしょう」
「柴望らしいな」
陽子が反省したことで、お説教は区切りとしたらしい。浩瀚は話を戻した。
「でも浩瀚は、普通に馬鹿桜と呼ぶんだな」
「時節に合わぬは花の種類が違うためでしょう。ですが、本来の名を知らず、また既にそれで定着している以上、敢えて違う名で呼ぶ必要がありません。桜が呼ばれる名に拘るとも思えませんので」
「ああ、成程」
確かに道理だと、陽子は頷いた。
「まあ、蓬莱桜だって、こちらの人がつけた名だしな」
「主上は何と呼んでおいででしたか?」
「こちらでいう蓬莱桜は、染井吉野、と。だが大学寮の桜は、染井吉野よりほんの少し色が濃かったから、確かに違う種類かもしれないな。まあ、蓬莱に桜は多かったから、もしかしたらあの桜もあちらに由来があるかもしれないが。でも誰も名を知らないなら、最初についた名で呼んで構わないのだろうな」
せっかく綺麗なのに少し可哀想だが、と陽子は呟いた。
そして、気分を変えるように、「だが」と続けた。
「桜の名ならばともかく、若くして大学へ入り、一心に官吏を目指す者を腐すような言説が定着しているのは、どんなものだろうか」
せっかくの優秀な人材を。と言うと、さて、と浩瀚は薄く笑んだまま返した。
「腐すとはいえ、故ないことではありませんから」
「え?」
「優秀も定義によりますね。むしろ官吏は愚鈍な方が良いのですよ」
「……お前に言われても、全然、信憑性がないんだが」
陽子は、自身に仕える才気溢れる能吏を、呆れた目で眺めた。
だが浩瀚は、あっさりと頷いた。
「ええ。ですから私は、私自身を部下に持ちたくございませんね。さぞ使い辛かろうと、主上の懐の深さに常々感謝の念を抱いております」
「何かそれ……褒められてるのか?」
「崇め讃えてはおりますね」
「ああ、もういいから」
お前がそういうことを話し始めると、背筋がむず痒くなる。と、陽子は片手を振って浩瀚の言葉を止めた。
嫌がって顰めた陽子の顔を楽しそうに眺めていた浩瀚は、そこでふいと笑みを消した。
「才とは悍馬の如きものです。馴らし鎮めて収めた上で、跨り歩ませるが肝要。まして官吏としての栄達を望むならば、切り立った尾根を一歩ずつ、人の助けを得ながら進むべき。ですが、己の才に驕れる者は、とかく自身の足のみを頼み、哮り、駆けたがるもの。故に、転げ落ちるは必定。桜に見立てての他愛もない軽口で悟れればよし、悟れぬ場合は……。いずれ自らの処遇は、自ら招くもの」
「ああ……。そういうことか」
「無論、年を重ねた者の内にも、己の才を制御出来ぬ者はおりましょう。ですが、年齢を経ての世間知とは意外に侮れぬもの。経験に勝る教師はない、と。……まあ、これは実戦なさっている主上に、敢えて申し上げることではございませんが?」
にっこり笑って最後に付け足され、真面目に聞いていた陽子は、そう締めるかと肩を落とした。
「成程。桜の下に敢えて立って己を試すという学生について柴望が言葉を濁したのは、そのせいか。そういえば雁の大学でも、似たような伝説か何かが流布していると、以前、楽俊に聞いたな」
何処も同じなのかなと首を捻ると、浩瀚は、是、と肯定した。
「普遍でなくば警句とはなり得ませんでしょう? 無論、届くべき者に届くとは限りませんが。……蓬莱の学舎には、ございませんでしたか?」
聞かれて、陽子は、「え?」と考え込んだ。
「あったかな。……大学入試のおまじないみたいなのはあったが」
「入試の呪い?」
「うん。向こうの大学は、別に官吏を目指す人が行くわけじゃない。こちらより数もずっと多くて難易度も色々だったんだが、入るのに試験が必要なのは変わらない。だから、どうしたら受かるかなんて情報を、大真面目に話す人はいた。……こっちの話のように意味あることは、殆どなかったが」
受験番号が3の倍数かどうかなんて警句じゃないな。と、陽子は肩を竦めてみせた。
「まあ、私が通っていたのは、こちらでいう少学のようなものだから、聞いたことがないだけかもしれないが。……ああ、いや。一つだけ聞いたな」
ふと、受験を控えて学校見学に行った上級生から、知らずにやってしまったとぼやかれた話を思い出して、うん、と頷く。
「その大学の創設者の像へ詣ると結婚できない、とか」
「は?」
珍しく浩瀚が、素直に驚いた顔をする。それが楽しいと、陽子は声を立てて笑った。
他の蓬莱の知人の場合と同じく、話をした先輩とさして深い付き合いがあったわけではない。委員会の時間潰しの雑談に付き合わされただけのように記憶している。話した相手は話した事実どころか、陽子の存在すら覚えていまい。まして海どころか世界を越えた場所でこんな風に取り沙汰されるなど、想像出来る筈もなかろう。
しかし陽子は、怜悧で鳴らした冢宰のこんな顔を引き出せた分、話を記憶していた価値がある。と、満足した。
「向こうは家を重んじるから、結婚というものも同時に重んじられるんだ。そのせいかな?」
「今ひとつ得心が行きませんが、そのようなものなのですか」
「警句といえば警句だが、むしろ形骸化した怪談のようなものだろうな」
陽子が言うと、浩瀚は要領を得ないという表情を浮かべた。
だが陽子は、敢えてそれ以上語らない。
木に子供が生る世界とは異なる蓬莱。そこに住まう少女達の結婚を前提にした恋愛結婚願望とキャリアウーマンとしての人生の天秤。そんなものをこの怜悧な男に説いても意味がないと思ったからだ。そして何より、そんなことを語るには子供じみた照れが先に立つというのが、最大の理由だった。
陽子は僅かに浩瀚から目線を逸らした。