桜 装
Baelさま
* * * 弐 * * *
2011/04/08(Fri) 23:55 No.302
「まあ、怪談といえば、馬鹿桜の話も同じだろう。下に立つばかりか目を向けても運気を奪われるとなれば、立派な祟りだ」
逸らしたついでに先の話に戻せば、浩瀚は、さて、と首を傾げた。
「目を向けただけでも祟られるとは、初耳ですが」
「え? ……ああ、そういえば。柴望は、最近ではと言っていたな。じゃあ、浩瀚の知る話とは違うのか」
「そうですね。そこまで大層な話にした覚えはありませんので」
「そう、か。…………って、え?」
さらりと言われた浩瀚の言葉に何気なく頷きかけた陽子は、そこで違和感に気づき、目を丸くした。
「あのな、浩瀚」
「はい」
「馬鹿桜の下に立つと運気云々という話だが、これは作り話だろうな」
「事例を得々と語る者はおりますが、本当に桜に運気を抜かれたという話は、寡聞にして存じませんね」
「そうだろうな。ということは、誰かが話を作ったんだよな」
「そうお考えになっても不思議はありませんね」
「うん。……で、作ったのは」
「はい。私でございます」
あっさりと首肯され、陽子は思わず半眼で浩瀚を睨んだ。
「何でまた」
問うと浩瀚は、珍しく柔らかな表情で笑みを浮かべた。
「当時、私が師事していた老師のお一人が、桜がお好きで酔漢が大嫌いだったものですから。桜の下の酔漢をどうにかせよ、さもなくば允許はやらぬ。……と、言われてしまいまして」
「で、怪談か? よく皆、信じたな」
「私が怪力乱神を語るは、余程、珍しかったようですね。併せて既に金波宮に伺候していた朋輩等にも助力を仰ぎましたので、無事に允許を取ることが叶いました」
──しかし、由来も知れぬ四方山話が、まさかここまで残るとは流石に思いませんでしたね。と、感心した風に言われ、陽子はこめかみを押さえた。
一体それはどの位昔の話なのかと、聞いてみたいが答えが怖い。
「大体、何で若者限定なんだ?」
「酔って騒ぐに年若い者が多かったのが一つ。朋輩等に語ってもらう事例を信憑性のあるものにしたかったのが一つ。とはいえ、年長の者が桜の下に立ったとて、あの者は己を若いと勘違いして才を試しているのだと囃されたため、皆、近づきませんでしたね」
「……容赦ないな」
にこにこと説明される内容は、随分と手加減がない。というか、よく考えなくとも囃されたのすら浩瀚の策の内だろうと思える分、えげつないとさえ言えそうだ。
よくぞこんな男に妙な課題を出してくれたものだ。と、見も知らぬ老師に内心でぼやくと、陽子は頭を切り替えるように、「しかし」と口に出した。
「その老師は、今も喧騒のない桜を楽しんでおいでなのだろうか」
「いいえ。もう大分前に、己が務めは終えたと野に下られました」
「そうか……」
懐かしむような色の濃い浩瀚の声に、陽子は目を伏せる。
と、「主上?」と響きを切り換えた浩瀚の声に不意に呼ばれ、思わずぴくりと肩を震わせた。
「そろそろ教えて下さっても宜しいのではありませんか」
「な、何をだ?」
言いながら浩瀚の顔を見上げた陽子は、にこりと隙なく笑んだ面を見て、う、と詰まった。
「大学寮の桜についてのご下問。何か意図あってのものと推察致しますが」
「……浩瀚が慶の大学を出ているかどうかに興味があったから」
「それだけではございませんね?」
確信を持って聞き返され、陽子は、む、と上目遣いに浩瀚を見上げた。
「嘘じゃないぞ?」
「無論、分かっておりますとも。主上の意を汲むに昏くて何の冢宰にございましょう。故に、他にもお考えがおありでしょうと、お尋ねしているまで」
「あー……。いやだから、せっかく綺麗な桜なのに曰くがあるからと目も向けてもらえないなんて可哀想だと思って、だな。もう少し耳に優しい伝承に変えられはしないか、と」
「例えばどのような?」
「う。ええと、その、例えば若い学生と桜の精の悲恋物語とか、だな。ほら、雅やかじゃないか? 最近我が国は、範の麗人と誼を通じたこともある。この際だ。堯天に少し華やかな話題の一つや二つ……」
「成程。それは大変麗しい話でございますね。まるで雑劇の筋立てのように。朱旌は、その地に応じた演目を求めるもの。持ち込む者あらば、幾かの金銭を払ってくれるものと思われますが、さて。それを受け取るのは一体どなたでしょう」
「……だって、景麒は小遣いをくれないんだ。私だって、たまには堯天の露天をひやかすくらいしたいぞ」
むうと顔を顰めて陽子はぼやいた。とはいえ、これは意図を読まれていたことに対する羞恥も混じっている。
こんなことなら最初から素直に白状しておけば良かったかというのは、今更思っても詮無いことだろう。
そんな陽子に、主上、と浩瀚は微苦笑した。
「国主に対し与えるなどという不敬を為せる者はおりません。お命じになるべきです」
「だが、公金を遊びに使うのもどうかと思うし」
「基本、王に公私はございません。朱旌相手に主上が稼がれる金銭も、広く定義するならば公金。もっとも、それを公金と認めるくらいならばと、おそらく台輔が主上のお小遣いとやらを、朱旌が払うであろう金額の百倍はご用意下さいましょうね」
「ええと」
──つまりそれは、命じれば小遣いを貰えるように浩瀚が計らってくれるということだろうか、と陽子は首を傾げた。
その際、どうやら脅されるらしい景麒の不遇は今はおく。というか、どうでもいい。
「いいのか」
「良し悪しを問われて良しと答えるのは難しいですが、王が民の金銭感覚を理解するは意義あることでしょう。落ち着き始めた堯天の治安を見極められるも一つ。主上の気晴らしの効果も含めれば、妥当なところかと。但し、必ず台輔にお断りになられた上で、使令はお連れ下さい」
「ああ、勿論」
有難うと、笑みを降り零しながら陽子は礼を述べた。