わたしの守り神 2
饒筆さま
2011/05/09(Mon) 13:27 No.849
柔らかな紙を突き破るような感覚を抜けて。辿り着いたのは内殿の外れ。本来ならば女御が来るべき場所ではない。しかし王宮内を迷ってそこを見つけてからは、何度かこっそり訪ねて来ていた。
一本の、見事な桜木に会いたくなるから。
今日もその桜は温かく私を迎えてくれた。白い花が夕陽を浴びて、暖色に染まっている。
――おばあちゃん。桜の神様。私、どうしたらいいの・・・。
彼が好きなの。でも自信がないの。こんな私が彼に相応しいなんて思えない。彼はまだ若木だけれど、きっと大樹に成長して絢爛たる花を咲かせるわ。そして彼は私に失望し、私は彼のそばにいることが辛くなる。幸せになんて・・・なれない。
だけど、今、彼を諦めてしまうこともできない。
私はどうしたいの? どうしたらいいの? いくら考えても、想いは千々に乱れるばかり。
堪えていた涙が溢れた。わからない。わからない。顔を覆って、声を殺して泣いた。
どのくらい泣いていただろう。
ふと、近くに人の気配を感じて、私は顔をあげた。
「気は済んだか」
ち、冢宰閣下―!!
「冢宰府への帰路におまえを見つけてな。いくら冷酷非道と呼ばれる私でも、一人で泣いている女性を放っておく訳にはいくまい」
いつからそこに居たのですか、ひょっとして泣き止むまで待っていてくださったのですか、というか、どうしてこんな御方に見つかってしまうのかしら、私ってつくづく不運!
狼狽する私を眺め、閣下が苦笑した。
「自分一人で解決できるのならば、口出しはせん。だが、その様子では、自分ではどうしようもなくて泣いているのではないか」
「はい・・・その通りでございます・・・」
鋭い。さすがです。
「私で良ければ話を聞くが?」
「ええっ! そんな、とんでもありません! こんなくだらない話をお聞かせする訳には・・・」
「先程、主上のお悩みにも散々付き合ってきたばかりだ。夕餉の水菓子(でざーと)は杏仁豆腐にするべきか亀ゼリーにするべきか、という難儀なものでな。今なら、どんなくだらない話でも聞けそうだ」
ぷっ。ごめんなさい、陽子。思わず吹き出してしまったわ。
ねえ陽子、貴女、もう少し彼を引き留めたかったのね? もっと話をしたかったんでしょう? それで苦し紛れに思いついた話題が、水菓子(でざーと)。もう、可愛すぎるわ。(だ、断じて違―う!! By陽子)
ああ、他人のことならよくわかるのに。
・・・もしかして、頭脳明晰な冢宰閣下なら、あっさり最良の選択を教えて下さるかしら。(魔が差したな・・・鈴)
「でも、本当にくだらない話ですよ?」
前置きして、ぽつぽつ語り始める。
私の話は直感的だし、前に進んだり後に戻ったりするからとても解りづらいと思うのだけれど、閣下は急かしもせずにじっくり聞いて下さった。
そして開口一番、冷静にひと言。
「鈴。おまえは思い違いをしているな」
「思い違い?」
「そうだ。まず、人の価値というものは一概に比較することなどできない。例えば、この桜とそこの蒲公英、どちらが優れていてどちらが劣っているか、そんな議論には意味が無い。だから、鈴、おまえが周囲より劣っているとか恋人に相応しくないなどと悩むことにも、実は意味が無い。おまえはむしろ、己の理想像と現実の乖離を口惜しく思っているのではないか」
「リソウゾウとゲンジツのカイリ・・・ですか?」
「言い換えれば、こうありたいと願う自分、もしくは十年後にはこうなっているだろうと期待していた自分、そういうものにまだ到達していないことが問題の根底にあって、そこを解決しなければ、恋愛などできないと思っているのでは?」
目からウロコが落ちた。
そうか。私は誰よりもダメな人間だから情けないんじゃなくて、自分が自分に求める目標にちっとも近づけないから情けないんだ。考え方を変えただけで、すごく前向きになれそう。・・・情けない事実に変わりは無いけれど。
「そういう場合は、明確な目標を設定し、それを成し遂げることで達成感を得るのが一番だな。達成感を積み重ねることで自信もつく。どうだ、鈴。昇進試験を受けてみないか」
「え? 昇進試験を?!」
「実は先日、女官長から鈴に昇進試験を受けさせたいという話を聞いた。彼女はおまえをずいぶん買っていたぞ」
「玉葉様が? そんな・・・私は呑み込みも悪いし、失敗ばかりでご迷惑をかけていますのに」
「確かに臨機応変な対応は難しいようだな。だが、自分の欠点を補うために、いち早く準備に取りかかり何度も手順を確認するため、漏れが無いと言っていたぞ。あと、後輩の面倒見が良く、同僚が犯した失敗の後始末なども手際が良いと」
「それは、私が大概の失敗を全部経験しているからで・・・」
私は肩を竦める。ははは、と閣下が笑った。
「今日も御蔵をめちゃくちゃに散らかしたそうだな」
「もうご存じですか! ・・・誠に申し訳ありませんでした」
「だが、怪我の功名もあった。所在不明になっていた耳飾りを発見しただろう」
「はい。それは、目録を見たときに翡翠の一対だと書いてありましたので・・・きっと陽子に似合うだろうなと思って記憶に留めていたんです」
「よくぞ憶えていた。なかなか役に立つ女御ではないか」
お、お褒めに与り恐縮です! 単純に嬉しくなった。女官長や冢宰閣下のような、謹厳な御方に褒めてもらえるなんて。自分なりに頑張ってきて・・・良かった。
閣下の声がほんの少し優しくなった。
「鈴。おまえはありのままで周囲から評価されている。ありのままで愛されている。そのことを忘れるな。自分を卑下する暇があるのなら、周囲の好意に応えるために、少しでも自分の価値を高める努力をしなさい。そうだな、恋人には、今忙しいからしばし待て、とでも言っておけばどうだ? その『しばし』が待てないような男は相手にしなくて宜しい」
目前の霧がさっと晴れてゆく。自然と笑顔が戻って、私は深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございました!」
「礼には及ばん。昇進試験の件は女官長と相談しなさい」
「はい!」
ご相談して良かったわ。
立ち去る閣下の背中を見送り、私はもう一度桜を見上げた。
――桜の神様・・・あなたが助っ人を呼んでくれたの?
夕闇が迫る中、花ざかりの枝がざわざわと揺れた。
ちゃんとお返事、できました。
お天道様の下で――告白されたときと同じ桜の下で。
「だからね、昇進試験に合格するまで・・・ううん、合格して、班長として後輩たちを指導できるようになるまで待ってほしいの。それができたら、胸を張って良いお返事ができると思うの」
「わかった、鈴。待つよ――まあ、僕も来春から新米官吏だからね。お互いに頑張ろうってところかな」
「ありがとう、夕暉。こんな我儘を聞いてくれて」
私たちは微笑み合って。それから、彼は私の頬にそっと口づけをくれた。
頑張るわ、私。あなたと幸せになれるように。
薄紅色の守り神が、祝福の花びらを降らせる。
私は青空と桜を見上げて、心から祈った。
――ありがとうございます。どうかこれからも、私たちの幸せを見守ってくださいね。