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長くなってしまいました。すみません。 Baelさま

2011/05/20(Fri) 19:56 No.1016

登場人物   陽子・浩瀚  
作品傾向   シリアス(浩陽風味)  
文字数   4036文字  

惜花紅雨 ─昼─

Baelさま

2011/05/20(Fri) 19:58 No.1019

雨が降る日は世界が静かだ。と、昔、思ったことがある。
人工物の騒音がないこの世界では、それが尚更に顕著だ。
耳を掠る雨音を楽しみながら、陽子は一人小走りに回廊を渡った。軽い靴音は、雨の重みに僅かに籠もる。
人の少ない王宮は、こういう時、余計に静まって感じられる。ひっそりと息を潜める、その空気。それが嫌だと思った時期もあるけれど、今は何だかゆったりと身を休めているようで。
宮殿だってたまには休息が必要だよなと、埒もないことを考える。
そう思えるようになった理由は知っている。
誰も彼も、自分の行動を鵜の目鷹の目で評価しては失望し、勝手に振る舞っている、と思っていたあの頃。
雨が降れば王のせい。雨が降らねば王のせい。
腕の上げ下げ一つにびくびくと怯えていた自分を振り返ると、何とも無様だと笑えるけれど。あの頃はそれが精一杯だった。
今は違う。
たとえば今、一人こうして内殿を歩き回っているのを見咎められたとして。何と不用心なと、きっと咎められるだろう。それは分かっている。
かつての自分も、きっと分かっていた。
だが、咎められる理由が違う。
危ないからと。身を案じろと。何より自分を大切にしろと。
──王のための王ではなく、陽子という王を大事にしろと。
叱ってくれる人達がいると、もう知っているから。
ふふ、と。陽子は小さく笑った。
ひぃやり冷たい雨の気配は、そうして頬笑む自分に優しい。
柔らかく途切れなく、絶え間なく。けれど少しひんやりとして遠い気配は、自分の側で同じくそう言ってくれるだろうその人に似ている気がする。
直接的な言葉では語ることが少ない。染みいる雨のように言葉は残るけれど、残した言葉を証にする程に甘くもない。
雨粒に手を伸ばして握りしめても詮無いように、何だか掴み所がない。それが悔しいと、陽子はそこで足を止め、一つ溜息を吐いてみた。
吐いた息が春先の冷たさに白く煙り、儚く雨音と共に消える。
それも一瞬。
僅かに強さを増した雨の音に、ふと我に返る。物思いはひどく春に似合うけれど、自分には似合わないと陽子は思う。
「そもそも、何が気になるのかすら分からないのに、な」
だから気になるのだと。結論づければ、何となくすっきりした気分になった。
軽くなった足で、また回廊を行く。その足が、ふと雨音と違う音をとらえて止まった。
「……なに」
否。それは雨音ではあって、ただ、自然物を叩く音ではない。木々が、岩が、整えられた王の庭が雨に包まれて濡れていく音ではなかった。
「何を……している?」
その男は、陽子の言葉で初めて気がついたように視線を向けてきた。
「これは、主上」
「いや、主上じゃなく。……何をやっているんだ、浩瀚」
「散る花を愛でておりましたが」
「…………。……雨の中?」
驚いたように目を瞬く陽子の視界の中、問うた男は「ああ、そうですね」と、いつもと同じく冷静な表情で笑んでみせた。
白い面がいつもよりなおのこと白く見える。煙るように遠くも見えるのは目の錯覚ではない。男がこの雨の中に濡れて立っているからだ。
ふと伏せられた深い瞳。睫の先で、雫が零れる。
ぱたた、と。
雨に耐えかね撓んだ桜の花枝から雨粒が滴り、冢宰の冠で弾けた。
その音にはたと我に返って、陽子は慌てて手を伸ばした。
「ちょ……何でもいいから、こっちへ来い。桜を愛でるならこの回廊でだっていいだろう!」
そんなところで濡れているな、と。伸ばした掌が、もう既に濃くしっとりと濡れそぼり色を変えた衣を掴む前に、ふわ、と。拒むように袖が返される。
「触れてはなりません」
「何で」
「主上が濡れておしまいになられます」
「そう思うなら、お前からこちらへ来い」
「いいえ、私は暫しこのままで」
「……何で」
側にいるのに届かない言葉に、陽子は思わず唇を噛んだ。浩瀚は陽子を見て困ったように微笑み、そして視線を地に落とした。
それを追うように、陽子の視線も落ちる。
もう盛りも終わりの桜の木の下。しとしとと決して強まることなくけれど絶えず降る雨の滴に叩き落とされるように、地には幾重にも幾重にも薄紅が散り敷かれる。時折跳ね上げられる土に汚れ、その上に更に積み重なる薄紅。
そして、更にその上に、何かを重ねる男。
「浩瀚……」
呼ぶ声に、「はい」と応は返るけれど。そして柔らかな視線は陽子を向いてくれるけれど。
それでも彼は何かを託すように、雨の中、桜の下に立ち尽くして動いてくれない。
「浩瀚は、散る花が惜しいか?」
「さて」
どうでしょうね。と、言う声は常のものより僅かに冷えているように聞こえた。
「散り落ちた花を踏みにじって、それを養分に咲く桜は美しいと。そう私は思いますが」
「でも散り落ちた花も綺麗だと。……そう思うのじゃないか、お前なら」
「そうかもしれませんね」
互いに問うて問われているのは、何か。それを明らかにしないまま、言葉だけが雨のように降る。
ならば雨が花を落とすように、浩瀚の言葉が陽子の中に響くように。陽子の言葉が浩瀚の中に形作るものはあるか。あると信じたいと、陽子は願った。
──私もまた、お前の中に在ると言ってほしい。
それがどんな感情か、陽子は知らない。
「もしも私が花びらなら。散り落ちたことに意味がないより、ある方がいいと思うな」
「主上が……花びらですか?」
「何だ。似合わないか? まあ、自覚はしているんだが」
「いいえ、とんでもございません。……ただ」
「私に地に落ちるな、と。そう言うのかな、お前なら」
くす、と。微笑って言うと、浩瀚は答えを返さなかった。そうだろうと分かっていたから、陽子は「だったら」と言いながら手を伸ばした。
「主上」
「……私は、これでいい」
咎めるような浩瀚の呼びかけを聞き流し、真っ直ぐに腕を、指を伸ばし、望みのものを求める。
回廊から差し出した陽子の袖はたちまちに春の雨に濡れ、しっとりと重くなっていく。だが、その重さも濡れる冷たさも、欲しいものの前では意味を持たない。
指先は浩瀚の頬の傍らでほんの微かに迷い、通り過ぎて雫を湛えた髪に、そこにあるものにそっと触れた。
幾重にも、幾重にも降り注ぐ花。花びら。地に落ちて重なってただ汚れていくその定め。その道筋を僅かに外れ、この男の濡れた髪に散り落ちて共に濡れる、その一欠片。
それを摘み取って、ほら、と示した。
「これが私」
「その花びらが、主上ですか?」
「そう。お前に庇われて、地に落ちずここにある私」
「……それは過分なお言葉かと存じますが」
「でも、私はそう思うんだよ」
──だから、これは私。
言って差し出した花びらに、そっと長い指が差し伸べられる。触れられる距離に、何故か陽子の指は震え、花びらが零れ落ちそうになる。
「……あ」
その刹那、陽子の掌は花びらごと、自分よりずっと大きな掌にぎゅと握りしめられていた。
「落ちなかった?」
「主上の形代を落とす筈がございませんでしょう?」
重ね合った掌を、未だしとしとと降り続く雨が共に濡らす。それをじっと、二色の瞳がそれぞれに見つめた。
「浩瀚の手が冷たい」
「失礼を。主上を濡らしてしまいました」
「それはいいから。私が自分で濡れたんだ。……でも、いい加減そんな所にいるのをやめないと、私も飛び出すぞ」
言いながら、くい、と繋いだ手を引く。
或いは拒まれるだろうか。と、身体が勝手に緊張したが、男は微笑って自ら歩み寄ってきた。
「主上までも濡れてしまわれては困ります。私が女史や女御等にどれ程に責められることか」
お袖を濡らしただけでも叱責が怖いですのに。と、全くもって信用ならないことを言う男に、陽子は呆れた顔をしてみせた。
「何を言うんだ。どうせお前の分まで私が怒られるに決まってる」
「それだけ主上の御身を皆が案じております証ですね」
「何だか理不尽だぞ」
「では、叱られる前にお着替え下さいませ」
言いながら、繋いだ手がゆっくりと倒される。陽子の手を掬い上げるような形を取った大きな掌は、そこでふわ、と。開かれた。
後は解放された陽子の手を浮かせばいい。分かっているのに何故か、陽子は惜しむようにぎゅ、と。自分からもう一度その大きな掌を握っていた。
浩瀚が小さく苦笑する。
「主上。主上の形代は、私がお預かり致します。決して落としは致しませんので」
放せ、と。言外に要求され、陽子はむぅとふくれっ面をしてみせてから、仕方なく手を放した。
「では主上、お着替えを。私も衣を改めて参りますので」
「うん。でも……」
「……もう、花を愛でるに足を止めるのはやめに致しますので。ご安心下さい」
雨に濡れることはしない、と。やや困ったような顔の浩瀚に言われ、陽子は分かったと頷いた。
「でも、次にこんなことしてるの見かけたら、私も飛び出していって並んで花見をするからな」
「では、花見は晴れた日のみに致します」
「そうしてくれ」
「来年のことになってしまいそうでございますが」
言いながら、浩瀚の瞳が未だ雨に濡れる桜の樹へ移される。それに合わせるように、陽子も桜を見上げた。
一向にやむ気配のない雨の中、もう桜の枝は淡雲のような花色をさして残してはいない。ただ葉の芽の紅色が、雨の中で艶やかではあった。
もう桜の季節も終わる。
「じゃあ、来年。……来年の晴れた日に、花見をしようか」
ね、と。のぞきこんで請えば、浩瀚は一度瞬いてから、それもよろしゅうございますねと微笑んだ。
そうしましょう、とは言ってくれない。それは分かっていた。
分かっているからこそ、陽子は自分の胸元で、右の掌をぎゅぅと握りしめた。
雨に濡れ、重なり合った掌の感触と温度を。もう自分は覚えたから。来年もきっと覚えているだろうから。
だから、というのがどういう理屈なのか。陽子は未だに理解できていない。
それでも。
「じゃあ、来年の今頃に、予約を取り付けてやる」
覚悟していろ、と。
その宣言が、彼に向けてなのか、自分に向けてなのか。それは分からないけれど、散り逝く桜に一つ呟いて。
陽子は何かを解放するように、そっと右手を開いた。

──春雨の降るは涙か桜花散るを惜しまぬ人しなければ

背景画像 瑠璃さま
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