笑顔咲ク ─弐─
Baelさま
2011/05/22(Sun) 19:59 No.1065
「おおっ。慶桜赤珠の瓶詰じゃないか!」
「うわっ」
「文張、どうしたんだ。これ!?」
「……鳴賢。いきなり飛び込んでくるのはやめてくれって」
いきなり呼びかけられた声に、思わず全身の毛を逆立てた楽俊は、それがいつもの学友だと気づいて、しおしおと髭をへたらせ項垂れた。
だが、散々言われている言葉を相変わらず右から左に聞き流し、鳴賢は楽俊の部屋の中へつかつか入ってくると、卓の上に置かれた小さな瓶を矯めつ眇めつ眺めた。
「本物、だよな? もの凄い人気で、雁の大店にもあんまり数が入ってないって聞いたぞ。……って、何だ? この蚯蚓もどき」
と、鳴賢は、瓶詰の隣に置かれた紙を見やって眉をひそめた。
その声に、蚯蚓? と小首を傾げた楽俊は、それが何気なくそこにおいた書簡の一枚目であることに気づき、青ざめられない鼠の姿ながら真っ青になった。
「うわあああ……ちょっと待て、鳴賢!」
「ええと……おひさしぶりらくしゅん……って、何だよ。これ、もしかして書簡か!?」
「もしかしなくとも書簡だから、返してくれって!」
「あー、悪い。如何にも反古紙に書き殴ったみたいなんで、何の落書かと。でも、お前にしちゃそもそもあり得なすぎる文字だから、何事かと思ってさ」
「……あー」
言いながらも鳴賢は、ほいと書簡を楽俊に手渡して笑った。
楽俊はこりこりと頬を掻く。
まあ確かに、これを自分の字だと言われるのも微妙かもしれないが、しかし。
「これでも、随分と頑張って上達してんだけどな」
「え!? これで? ……えーと、何かやたら大きく書かれた祥瓊って文字が目に入っちゃったんだけど、さ。それって、暫く前に文張を訪ねてきた美人の名前、だよな。まさか、この壊滅的な文字が……」
「と、思われたのが祥瓊の耳に入ったら、さぞや憤激するだろなあ……。祥瓊の書く文字なら如何にも美麗な女手だよ。これは、祥瓊とも共通の友達からだ。そいつ、海客なんだよ」
「そうなのか。そりゃ、多少は下手でも仕方ないよなあ」
納得したと頷く鳴賢に、楽俊は、うんと頷いた。
「確かに、まだ下手かもしんねえけど。でもあいつ、他にもやんなきゃいけないことがいっぱいある中で、全部精一杯頑張ってるんだ。だからおいらも、精一杯誉めてやりてえんだよ」
「そっか。偉い奴なんだな」
「うん。……ああ、それで。こいつも祥瓊も、今は慶で働いててな。そんで、この慶桜赤珠を送ってくれたんだ」
それでここにあるのだと言えば、成程、と鳴賢は手を打った。
「やっぱ慶なら手に入れやすいのかな。何せ、“景王赤子の姿を映し、女王に愛でられたる珠”って言われてるんだろ?」
「あー……らしいな」
その売り文句を考えたのは自分らしいです。とは、まさか言えず、楽俊は僅かに遠い目をした。
いや、自分としては、そこまで派手やかにした覚えはない。ただ、試食してくれと持ってこられた小さな果実の赤い色と柄と葉の緑に、陽子の色だなとは確かに言ったのだが、しかし。
「……なのに、いつの間にか命名者の一人にされてるんだもんなー」
あれは何かの罠ではなかろうかと思うが、答えはまだ得られていない。
そんな風にぶつくさ言う楽俊を余所に、鳴賢はひたすらに慶桜赤珠を褒め上げていた。
──曰く。蓬莱育ちの景女王が路木に願って慶に得たこの果実は、観桜とは異なる桜の木に実り、摘んで僅か三、四日程しか保たない。だが、その色と形の美しく愛らしいこと正に桜の珠の如し。柔らかな甘味は味わい深く、仄かな酸味の上品さは女王の気高さに似たりと謳われている、と。
──曰く。慶に著名な妓楼である金鶏楼にて、高嶺の花と名高い妓女に大店の主がこの慶桜赤珠を送り、己の想いはこの甘く酸く切ない果実に似ていると掻き口説き、赤珠の柄が二つ繋がりでしっかり結ばれているのを指し示して、斯くの如く後の世まで共にありたいと願って共寝に漕ぎ着けた、と。
──曰く。その話が知れて以降、雁や範、果ては奏でも、慶桜赤珠の人気は留まることを知らず、その保ちの悪さ故にまさに珠の如き値がつくこともあるものの、その希少価値から尚更に求める人が絶えないらしい、と。
「良く知ってんなあ、鳴賢」
「ああ。この間、書物を借りたら奢れって言われて、最近流行りの甘味屋に引っ張っていかれてさ。そこの店の最近の売りが、この慶桜赤珠の糖蜜漬を添えた酪で。まあ、どうせ金を出すんならってことで、色々と聞いてきたんだ」
しかし、やっぱり結構高かった。と、鳴賢は顔を顰めてみせた。
「生の赤珠と違って、俺らも手の出る値ではあるんだけどなあ。でも酪に添えると互いによく引き立つから売上倍増だって、店は喜んでたみたいだけど」
「酪は酸いから、糖蜜漬の甘みがちょうど良さそうだなあ。色もいい。そりゃ売れそうだ」
「甘いの好きな客用に、餡に添える店もあるらしいぞ。とにかく人気が高いんだよ。やっぱり色かな。それから形と大きさ。愛らしく彩りを添えて女の客を呼び込むに最適なんだと。さすが女王の願われた果実だけのことはある、きっと景女王もこのように愛らしく美しい方に違いない。とか、何とか」
雁は男王だから、そういう華やぎでどうこうという話はないからな。と言われ、楽俊は僅かに小首を傾げた。
成程、こういう言説が出回っているとなると、陽子が果実の名を避けるのも頷ける。と思ったのだ。
もっとも、おそらく噂が出回るに手を貸した金波宮の面々同様に楽俊も、慶東国の女王は大国雁の王に伍する鮮やかに美しい覇気を持つ一方、果実に目を輝かせる愛らしさも持つ、と知っているので、そこには違和感を感じない。
それにしても、と。鳴賢を眺める。
教えてほしいなと陽子が願ったことが、鳴賢と話すだけでしっかりと手に入ってしまった。やはりこれは、礼をすべきだろうか。
「……あのな、鳴賢」
「うん」
「他言を、絶対にしないでほしいんだけどな。絶対に、だぞ」
「文張、お前な。そこまで念を押すか? 俺が、喋るなと言われたことを他言するような男に見えるのか」
「いや、そうじゃねえんだが」
不満そうな鳴賢に、はたはたと手を振ってみせて、楽俊は、「そんだけ大層なことみてえだから」と言い置き、卓の陰に置いていた片手に乗るくらい小さな箱を取り出した。
そして、ぱかりと開ける。
途端、鳴賢の目と口も、ぱかりと丸く開いた。
「慶桜赤珠の果実。糖蜜漬じゃない生の方だ。まあ、ちょびっとな」
「お……おまおまおま、これっ」
「これをどうしたかって? ……いや、一応、貰ったんだけどな」
「だ……誰にどうしてどうやって!?」
「……うーん」
楽俊は、髭をそよがせながら遠い目をした。
送るねと書いて寄越したのは隣国慶の女王様で、その手紙と箱を持って「ちわーっす」と窓から配達してくれたのは、この雁州国の神獣たる延台輔だったりするのだが、そんなことはまさか言えない。というか、足の速い騎獣を使って慶桜赤珠を入手するのが流行っているとはいえ、その騎獣の役を麒麟が務めて良いものかと、楽俊としては声を大にして主張したい。
まあ、楽俊に持ってきたものよりも数倍も大きな糖蜜漬の瓶を背中に背負った延麒の様子から察するに、自身の分を入手するついでだとは分かるのだが。いや、思考が逸れた。
「……あのな。先刻、祥瓊の名前出しただろ? 彼女、元は芳で裕福な暮らししてたけど、親を亡くして慶へ移ることにしたんだと。んで、その途中、柳で難儀していたとこで、おいらと知り合ったんだけどな」
「あー、確かに。かなり上品でお嬢様っぽかったもんな」
──それはそうだろう。何せ前身は、芳の元公主だ。
「そんで、慶で縁あって金波宮に下官として勤めることになってな。まあ、この慶桜赤珠の事にも、ちっとばっか関わってるらしいんだ」
──ちなみにその縁が楽俊自身だったり、反乱だったり、はたまたその乱に自ら参加してしまった女王様だったりするのは、言わぬが花というものだろう。ついでに、ちっとばっかとは言ったものの、ほぼ女王の腹心に近い彼女は、この果物の件にもどっぷり関わっているだろうという推測にも、口を拭っておく。
「えーと、そんなわけでな。試作品を送ってくれた、と」
だから食べてみないかと言うと、鳴賢は「文張」と、真剣な顔で腕組みをしてみせた。
「お前が友情に篤い奴なのはよく知ってるが、そんな女心を無にするようなことは、やるべきじゃないと思うぞ」
「……は?」
「慶桜赤珠を贈るってのは、二つ繋がりで仲良くしようというお誘いだと、慶では有名だっていうじゃないか!」
「…………」
──誰が仕掛けた噂だ? というのが、その瞬間、楽俊の頭をよぎった考えだったりする。
おそらく蓬莱由来ではあるまい。そもそも蓬莱からこの果実を持ち込んだ少女は男前であるが、男女の機微などというものは頭からコロリと抜け落ちた仕様になっている。こんなことは思いつきもしないだろう。
だが、そんな呆気にとられた楽俊の様子には気づかなかったらしく、鳴賢は、だからな、と身を乗り出した。
「普通、生の慶桜赤珠なんて贈れないからさ。糖蜜漬とかを贈ったりするらしいけど、消え物だろう? 色街では、そこが粋だと持て囃されるらしいけど。そこで最近じゃ、赤珠をあしらった簪や手巾、耳墜とかが大人気らしいぞ。何でも慶から範に噂が流れて、それで一気に広がったって」
「あー。……成程」
楽俊は、やや遠い目で呟いた。何となく、関わる面子の顔が浮かんだが、根性でそれを押し潰す。
そう。流行を売り込む見返りに範から何を貰ったのだろうかなんて、平凡な学生は考えぬが吉というものだ。
「ええと、だからな、鳴賢。それは本当にねえんだって。大体、祥瓊は今、一所懸命金波宮で働いてて、他国の大学生になんて目を向けてる暇はないだろうし」
「そうなのか? でもほら。もし卒業してから慶に仕官するとかなら……」
「何か風向きが変わったな」
楽俊は、ことんと首を傾げた。
以前、卒業したら慶に行くのも選択肢の一つと楽俊が言った時、鳴賢は真剣に翻意を勧めたのだ。
あれからさして経っていないのに何故と問えば、まあな、と頷かれる。
「あの時はな。慶は波乱が続く国だし、文張の才を考えると勿体無いと思ったんだよ。でも、最近の勢いを考えるとな」
「そうなのか?」
「そうなんだよ。例えば最近じゃ、きちんとした文章を敢えて話し言葉に崩した一文を、洒落た薄様に書いて贈り合うのが流行り……ええと、ええと。ぶ……何だ」
「ぶうむ? だっけか」
楽俊が、よく陽子が口にしていたと思いながら答えると、鳴賢は、「そう、それだ」と、手を打った。
「それだって、景女王君が側近の方々に短い労いの言葉をお書きになったのを受けて、気取らず飾らない仲なのを強調するのにいい、ってことから始まったみたいだし。そうそう。先刻の……ぶうむ? みたいに、蓬莱語をさり気なく織り交ぜるのもな。洒落ているって持て囃されて」
「はあ……」
「雁の主上や台輔もそうだけどな。やっぱり胎果の王って、勢いが違うのかなあ」
「…………そう、かもな」
無邪気な鳴賢の言葉に、楽俊は、僅かに苦く笑んだ。