かそけき湖畔の楽園
作 ・ 空さま
* * * 第3節 * * *
2010/05/04(Tue) 20:22 No.682
さて、七日に一度の公休日。早朝というよりはまだ未明、あたりは真っ暗なうちから、陽子はうきうきしていた。女友達三人で遊びに行けるのだから、こんなうれしい事はない。陽子は袍を着ていたので、ぱっと見には少年のよう。祥瓊と鈴は陽子よりは多少女の子らしい上着だったが、襦裙とまでは言えない代物だった。四春はそれほど豊かな所ではないので、暁天と同じ感覚で服を着ていると目立って危ないのだ。
「なんだか懐かしい」
と服を着替えながら祥瓊が言えば、
「私も」
と鈴が答える。
「うん、拓峰の乱以来だね、こんな格好」
陽子もそう言って三人でくすくす笑った。
三人は滝桜のすぐ近くまで、空行師に送ってもらうことになっていた。三人とも奇獣に乗ることはできるが、奇獣を連れて歩くのはやはり目立ってしまうのだ。離れたところで降りてそこからは歩くつもりだった。
約束の時間が来たので禁門へ出てみると、吉量が三頭、空行師の兵とともに既に待っていた。景麒と浩瀚が見送りに来ている。
「朝早いのに、二人ともすまない。行ってくるので後を頼む」
陽子が言うと、
「主上、お気をつけて」
景麒がそう言って何か陽子に手渡した。藍染の巾着には、小銭が紐に通されて一本入っている。
「なんだか子供みたいだなあ。でも、全然なくても困るからな。助かる」
「楽しんでいらっしゃいませ」
浩瀚も深く頭を下げた。
「ああ、行ってくる」
「主上を頼みます」
景麒が言うと、鈴と祥瓊はその場に跪礼した。
いくらか空が白んできた。その光を背にして、三人は建州のある村へと飛んで行った。
日もだいぶ高くなったころ、目的の地に近く、見晴らしの良い山の上に三頭の吉量は降り立った。ここには野木があり、旅人にはよく知られている場所だが、村までは少し距離がある。すぐ下には湖が見える。そこから川が流れ出ているのが良くわかった。そう大きな湖ではないが、湧水があるのだろう。透明度が高い美しい湖だった。陽子たちは細いけもの道を伝って湖を目指して降りていった。
足場はそれほど悪くない。周りは低い落葉樹で、建州ではまだ寒さが残っていて若葉は出ていないのだ。それでも、ところどころ、すみれやたんぽぽ、菜の花だろうか、小さな花が咲いていて、かわいらしい。
山を降り切ると、川のほとりに出た。自然にできた堤防のようだ。今は川の水が少ないので、川の流れはずっと下のほうになってしまう。その堤防の上に、今までのけもの道とは違う、かなり広い道ができていた。何より、人がたくさんいるのだ。皆、同じ方向へ向かって歩いている。陽子は、比較的良い身なりをした年配の女性に声をかけてみた。
「すみません、みなさんどちらに行かれるのですか?」
「おや、あなかがたも桜を見に来たんではないのかえ?」
「はい、そうです」
「おお、おお。それならこの道であたっとるがね。同じように歩いて行きなさい」
そう言って、その女性は又歩き出した。どうやら、家族で来ているらしい。隣の男性は夫だろう。
陽子たちも、その流れに合わせて歩き出した。
「なんだか賑やかね」
祥瓊が言う。時折馬に乗った人も横を通る。
「はあい、どいてどいて!」
威勢の良い掛け声が、後ろから響くと、それは馬車であった。
「あら、あんな乗り物が通れるほど広い道があるのかしら」
鈴が歩きながら不思議そうにつぶやく。
「こんなに人が多いとは思わなかったよ」
陽子も、そう答えていた。
さらに進むと、「四春」と墨で書いた前掛けのような物をまとっている人が何人かいて、人の流れを誘導していた。
「はあい、そこはぬかっているからこちらを通ってください」
別の誰かが、
「はい、押さないで。滝桜はもう少しですよ」
そう言っている。
「もしかしたら、村の人たちが見に来る人のお世話をしているのかしら?」
鈴がつぶやいた。
「そうね、案外大勢の人が見に来ているのかもしれないわね」
祥瓊も感心したように肯く。
ここ慶国では、有名な観光地、という物はあまりなかった。国が安定していなかったからだ。首都以外で、人がにぎわうということはあまりない。まして小さな村では、あり得ないことだった。しかし、今、目の前で起きていることは、事実である。国が安定してきた証拠だろうか。だったらうれしい。陽子は心からそう思った。
土手の上にできた道を川に合わせて曲がりながら来てみれば、正面が急に開けた。山の上から見た湖とは違うもっと小さな水場があったのだ。あの湖は、多分この向こう側になるのだろう。ひときわ高い堤防が、里山のような風景を作っている。その一ところに、大勢の人が集まっていた。たとえは悪いが、和州明郭で賦役に行かなかった罪人が処刑されるのを見に集まった広場のような規模であった。
しかし、その中心にあるのは、磔の台ではなかった。
桜だ。
桜とは思えないほどの、桜だ。
それは、大きな滝といえば、まさにそのような光景だ。
「あれは何?」
思わず祥瓊の口を衝いて出た言葉。薄紅色のしぶきが一面にひろがる。上から下まで、すべて桜だった。
「すごい……」
言ったきり口を閉ざしてしまった鈴。陽子は、言葉も出なかった。
――身の丈七丈は遠慮深すぎじゃないのか?――
まるで小山のような桜の木であった。その枝がすべて下を向いている。枝垂れ桜だ。滝桜とはよく言った物だ。それ以外の何物でもない。
人の流れが少しずつ進み、やがて桜のすぐそばまで三人はたどり着くことができた。ゆっくりだが一回りできるようになっている。根元はかなり太く、大人が何人いたらその周りを回ることができるだろう。節くれだっている幹が、相当な年月を経ていることを物語る。大きな木であるにもかかわらず、すべての枝から枝垂れて花が咲いている。花は、先日夕餉に添えられていたあの花と同じ、一つ一つは小さく、かわいらしい花であったのだ。それがどうだ。この圧倒される存在感。
良く見ると、長くて太い枝には、すべてつっかえ棒がしてあった。この様子を見れば、この木の生命力もさることながら、この地にすむ人たちがいかにこの桜を愛でていたかが分かる。きっとこの桜を中心に、この小さな村の営みがあったのだろう。
陽子は、一回り回りきったところでため息をついた。
「あまりにもきれいだから、疲れた」
そんな言葉を漏らした陽子を、鈴と祥瓊が両脇に来て挟み込むように三人並んだ。
「そうね」
「ほんとね」
良い物を見ることができた。そう思っていた。
「少し休んだら帰ろうか?」
陽子が声をかけると、
「ええ、そうしましょ」
「夕餉までには戻れそうだわ」
鈴と祥瓊も答えた。
急に三人は空腹を覚えた。見ると、少し離れたところに屋台が何台か店を出している。桜見物目当ての行商だろうか。
「ふたりとも、ここで待っていて。何か買ってくるよ、景麒からお金も貰ったことだし」
片目をつむると、陽子は一人走っていった。